<特別投稿>今帰仁城跡や周辺の発掘、修復や管理をおこなう文化財係り。専門家の目がとらえた今帰仁城跡。

海から拾った陶磁器(5)

今幕末が熱い。竜馬伝だけでなく、維新の志士たちの活躍を期待する時代の節目だからなのかもしれません。

 

さて、琉球から沖縄に変わる節目に、日本本州だけでなく、沖縄にも多くの船やってきた。ペリー提督のアメリカだけでなく、正に西洋列強がやってきたのです。

 

文字記録に残るこれらの船の航跡は残念ながら、文字記録に見るだけだが、ひとたび座礁、沈没すると海の底にもさまざまな証拠が残されるところとなります。

 

◆宮古島八重干瀬、プロビデンス号(1797年座礁)

 1797517日池間島地先の八重干瀬で全長約33m400トン級の帆船が座礁しました。1795年、地図上の空白部分だった北太平洋地域を調査するために英国を出帆。マカオを基地に探検したとされます。乗組員112人は別の帆船に乗り移り、宮古島に寄港。手厚いもてなしを受け、23日にマカオに引き返したとされています。この英国探検船プロビデンス号の船体や遺品を探し当てる海底調査が1996年、地元の青年らでつくる「プロビデンス号を語る会」(仲間章郎会長)が進めている企画で実施されました、海底から金属反応が出たとされています。この金属反応が座礁地点であるか関連については分かりません。金属反応があったのは水深15メートル。すり鉢状の底部分で「岩だらけ」といいます。池間島の漁師らはかつて八重干瀬から大砲を引き揚げたことがあるとされ、港に置いてあったといわれています。

 

◆北谷沖、インディアン・オーク号(1849年座礁)

 1840814日に英国船東インド会社のインディアン・オーク号が北谷町沖でリーフに乗り上げ座礁しました。座礁地点の調査が1984年に棚原盛秀とその同好会のメンバーで行われ、外洋から銅板や銅釘が検出さまsた。また、海底には半径100mにわたって人頭大の黒褐色の円礫が無数に散乱しているとされます。染付碗・皿、大型褐釉陶器、彩色陶器、角柱瓶、ワイン瓶などが採集されています。また、散布している礫は帆船の安定を保つために利用されたバラストと推定されます。

ちなみに、公園にはその船を模した遊具があります。

 

◆多良間島高田海岸沖、ファン・ボッセ号(1857年座礁)

 多良間村高田海岸はオランダ商船ファン・ボッセ号遭難の地として『球陽』に記載されています。

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写真:海岸から拾われたアムステルダムと書かれた瓶

 

◆宮古島宮国沖、ドイツ商船ロベルトソン号(1873年座礁)

 1873年に独籍の商船R.J.ロベルトソン号が暴風により座礁難破し、地元住民の救助によって無事本国へ帰国しました。この報告を受けたウィルヘルム一世は博愛の心を称え島に博愛記念碑を建立、現在も碑は市街地にあって県指定史跡となっています。座礁地点で回収された遺物として、かつて地元で海岸から表採された鉄の棒や石が引き揚げられていますが、これらがロベルトソン号のものかは不明です。野原公民館に保管される鉄製のバラストとされる鉄の塊があったが、現在は紛失し行方不明となってしまいました。

 

 

 

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写真:宮古島平良の市街地にある博愛記念碑

 

◆宜名真沖、英商船ベナレス(1874年座礁)

 1874年に英国籍の商船が暴風により難破遭難し、船員5人が生存したが多くの人が溺死したとされています4人の遺体が漂着し村民によって葬られ、オランダ墓として漂着した海岸近くに安置されています。このオランダ墓には難破船が漂着した際に船倉にあったとされる石材が縁石として利用されています。この他にも関連資料として錨が海底から引き揚げられる記念碑として奥漁港で見ることができます。また、座礁地点と推定される場所からは清朝染付碗などが採集されています。なお、この座礁船はその後文献調査によって年代及び座礁から送還までの略歴を把握することができている。

 ちなみに、この際の積み荷の石材が今帰仁村の運天港の為朝上陸碑の石碑の材として利用されています。

 

 

 

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写真:今帰仁村運天にある石材を転用して石碑にした事例

 

このように見ていくと実に多くの船が南西諸島海域を往来していたことが伺えます。身近な文化財にもそんな船の物語があることを教えてくれます。

 

 

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