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運天港は天然の良港といわれ、古琉球の時代から利用されてきました。
那覇・中城・運天の3つの港湾には、それぞれ琉球の政治的な重要拠点がありました。那覇港には首里城。中城湾には勝連グスク。運天港には今帰仁グスクです。

運天港現在の護岸運天港、現在の護岸

これら3つのグスクはその港によって繁栄したといえそうです。琉球はリーフと呼ばれるサンゴ岩礁で囲まれています。
船はリーフにはばまれて、陸に近づけない構造になっています。

18世紀の政治家・蔡温(さいおん)は、琉球にはよい港が少なく、リーフで船が座礁しているので、さんご礁開削して港を新設することを提案しています。集落に物資や人を運ぶのに非常に不便だからです。

大きな港が近くにあるグスクはそれだけで繁栄の拠点をもっているわけで、今帰仁グスクが栄えたのは運天港のおかげといえるのです。

朝貢船(進貢船)が発着し、薩摩軍3000人の兵士が分乗した船が何艘も停泊し、ペリー提督が上陸した歴史をもつ運天港、一度は訪れる価値ありです。

運天港展望台からのながめ。長い橋は古宇利大橋。運天港展望台からのながめ。長い橋は古宇利大橋。


運天港展望台からのながめ。アーチの橋はワルミ大橋。運天港、展望台からのながめ。アーチの橋はワルミ大橋。

運天散策 源為朝公上陸之碑

琉球には古くから、源為朝の渡来伝説があります。文献では、琉球神道記(1605年)に記されています。さらに、中山世監、中山世譜という首里王府が編纂した書物に登場するので、明治期まで史実として信じられてきました。

源為朝上陸のいきさつは次のようです。

大島から流された源為朝は「運を天にまかせて」たどり着いたのが「運天」で、そのことにちなんで運天の名前が付けられたという。大里按司の妹をめとり一子をもうけた。それが、尊敦(そんとん、後に舜天王)。その後、妻子を連れて帰ろうとしたが、波風に妨げられて、妻子を牧港に残しひとり帰国した。妻子は為朝の帰りを待ちわびたので「まちみなと」=牧港といわれるようになった。子供の尊敦はやがて浦添按司になりやがて王位に就き、舜天王となり琉球王国を治めたという。

源為朝公上陸碑
源為朝公上陸之碑の書は、東郷平八郎によるものです。東郷平八郎といえば明治の日本海軍の司令官です。軍国主義と皇民化を推し進める人物が、為朝の上陸碑の書を書いたのは、皇民化教育の一環ではなかったか?と思われます。

現代の歴史観や発掘調査に基づく時代背景を考察すると、源為朝上陸は事実上なかったことになるようです。しかしながら、子孫を名乗る一門が今帰仁詣でをするなど、源為朝はいまでも沖縄の地に生き続けています。

上で説明しているのは歴史家上里隆史氏。2011年春に行なわれた運天散策ツアーのときの写真です。

運天散策 百按司墓は謎につつまれている

百按司墓(むむじゃなばか)はその名前から、多くの按司が葬られている墓の意味です。では、いったい誰が葬られているのでしょうか?いまだ謎につつまれています。

百按司墓
百按司墓は運天の崖の中腹の洞窟を利用して造られています。墓の中には木棺があり漆を塗った跡があります。したがって高貴な人々の墓と考えられます。

文献では、中山世譜(1650??年)には監守貴族の墓、と記されています。
さらに、百按司墓は万暦5年(1577年)に今帰仁城下から移葬されたということが、島袋源一郎氏によって記されています。

百按司墓がもともと今帰仁城下にあったなら、まず思い浮かぶのは、第一監守の一族です。今帰仁城を滅ぼした中山の按司巴志(後に尚巴志)は、二男尚忠を北山監守として今帰仁城へ派遣しました。それが第一監守で、その一族ではないか?と考えられるのです。第一監守の後の第二監守は大北墓(うーにしばか)に葬られています。

しかし、一方では、北山王の一族ではないか?という可能性もありそうです。北山王一族の墓も特定されていません。
さて、いったい誰が葬られているのでしょうか?今後の調査研究が期待されます。
現在の百按司墓の外観は明治期に修復されたものとされています。現在、今帰仁村の文化財に指定されています。

説明しているのは、歴史家の上里隆史氏。2011年春に行なわれた運天散策ツアーの写真です。

運天の散策 ヤマト人の墓

運天港は古琉球の時代から、天然の良港として利用されました。海岸に面してたくさんの墓がありますが、その一つ、ヤマト人の墓です。写真の樹木の間に2基の墓石が見えます。

ヤマト人の墓
ヤマト人つまり日本人がこの運天港に来ていたわけです。交易のために訪れた商人だったかもしれません。航海の途中で嵐に遭い遭難したのか、病気になって亡くなったのかもしれません。
ふたつの墓石に名前はきざまれておらず、戒名が記されているようです。


写真で見ると、墓の周りにはなにやら道具類が置かれていて、あまりよい状態ではありません。

運天港を歩く:粟のかゆを流した坂

粟のかゆを流した?これは、敵が攻めてきたとき粟のかゆを流して敵を火傷させる戦術でしょうか?

確かに敵を撃退する戦術なのですが、これは呪術的な意味なのです。粟のかゆを大量に流しても、大勢の敵を火傷させることはむずかしいですね。ですから、呪術的な目的のためです。

おまじないではなく、これは本当に信じられていたことです。古琉球ではノロ(神女)も戦に加わって、相手を呪詛する(のろう)祈願をおこなったのです。
ノロは霊力(セジ)によって敵を攻撃するだけでなく、自軍を鼓舞する役割も果たしたようです。

歌謡集「おもろそうし」には、赤のよろいをまとい、刀を身につけた聞得大君が軍勢の先頭に立ち、「戦せじ(戦いの霊力)」を兵士たちに与える姿が謡われているという。(1531年のおもろそうし第一)


1609年、島津氏の薩摩軍3000人が運天港に上陸。今帰仁城跡は焼き討ちにされました。そのとき、この坂道、ウケメービラで粟のかゆを流して応戦したのです。(写真左の坂道)

粟のかゆを流した坂
参考:琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻 上里隆史著

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