Aコースは、グスク時代の登城道「ハンタ道」を登り、今帰仁グスクまで歩きます。
琉球のグスク時代の道が保存されていて、今でも歩ける。まさに歴史の道です。

2017散策A1班、グスクの発掘現場で
  今帰仁グスクの発掘現場で文化財係の方から説明を受けています


2017散策A1班 (3)、物見台ミームングスク
  物見台とされるミームングスク


2017散策A1班 (6)、散策を終えて記念撮影
  散策を終えて記念撮影 A1班の皆さん


2017散策A2班 (8)、散策を終えて記念撮影
  散策を終えて記念撮影 A2班の皆さん

バスガイドさんが知っていた平郎門の謎

平郎門の謎、階段とのずれ
  写真上の門から続く階段は、よく見ると、少しズレが生じている。


以前、バスガイドさんが平郎門の所で、案内するのを何度か聞いたことがあります。
「門の修理工事中に、根石が発見されたため、設計図通りでなく根石に合わせるように門の位置を直しました。だから、階段(七五三の階段)と平郎門は少しズレているのです。」
という案内でした。

この門と階段のズレは、普段は気がつきませんが、気づいた人にとっては謎です。

あるバス会社のバスガイドさんたちが案内する内容なので、マニュアルに載っていたのでしょう。(現在は案内を聞く機会がないので、どんな案内をなさっているのかわかりません。)


平郎門の謎2、門の根石にあわせて修理した
  平郎門の根石、中央の大きな石が根石。


ブログ記事 「平郎門の修理工事
http://nakijingusuku.com/culture/2010/04/post-12.html より根石の写真をお借りしました。宮城弘樹さんは記事の中で、
平郎門は創作だ、という意見があるけれど、根石に合わせて門の位置を決めるという、現在の修復作業と同じように正確な修理をおこなったことを評価しています。
(宮城弘樹さんは、以前、今帰仁村文化財係に勤務、われわれガイドを指導中にブログ記事を投稿していただきました。)

平郎門工事前
今帰仁グスクの正門は平郎門と呼ばれます。前回の投稿では、大石を運んできて、門の上に乗せる大工事をおこなったことを紹介しました。

上の写真は平郎門の工事を始める前に、起工式をおこなった時の記録写真の中の1枚です。1961年12月のことで、今からおよそ55年前。旧型の自動車が止まっている道は石畳道になっています。現在歩いている道で、すでに造られていたことがわかります。さらに、上のほうに向かって階段が見え、階段がすでに造られていたことがわかります。七五三の階段と呼ばれる、今使われている階段です。
2本の松の後ろには、城壁がそびえていて、この部分の城壁はよく保存されていたのがわかります。なぜ、平郎門は無くなっていたのか、今でも謎です。

起工式の集合写真には22名の参加者が写っており、主だった人たちは琉球政府文化財保護委員会のメンバーと思われます。その後何度か、文化財保護委員会は今帰仁グスクへ訪れ、工事の進捗状況確認や工事人との打ち合わせをおこなっています。


平郎門工事中のようす
平郎門工事中のようす2
上の写真2枚は、工事を担当した地元今泊集落の人々と思われます。平郎門は途中まで出来ている様子がわかります。


平郎門の図面
図面は平郎門の設計図で、赤く塗ったところが工事箇所です。当時の著名な設計士の手による図面のようです。

こうして、琉球政府文化財保護委員会と工事を請け負った地元の人たちとの共同作業により、平郎門が出来上がりました。
創作と言われることもある平郎門ですが、記録写真を見ると修復作業に当たった人々の苦労の末に完成したことが読み取れます。

下の写真は、完成した平郎門。左には史跡今帰仁城跡の碑が立っているので、1972年の本土復帰以降の写真と思われます。

完成した平郎門
写真や図面、参考資料は「平郎門の修理工事」(1)~(9)http://nakijingusuku.com/culture/2010/04/post-9.html よりお借りしました。さらに興味ある方はご参考になさってください。

平郎門の謎が解けた日

平郎門全景、一枚岩が重厚な造りを感じさせる

平郎門は今帰仁グスクの正門です。一枚岩を載せた重厚な造り、と表現されて人気のある門です。しかし、琉球政府時代の復元であり、復元の基になった資料などは残っていません。設計図はありますが、古老に聞き取り調査した内容を基にしたというだけで、いまひとつ決め手がありません。


あるとき、ガイドの岸本さんが作業した人と知り合い、その方から一枚岩の出所と、作業時の様子を聞くことができました。
下は岸本さんが写真入りで公表してくれた画像です。

平郎門の石の出所(1)
地図を見ると平郎門の石は、県道を少し下ったところから採取したことがわかります。(地図左側)

平郎門に使われた一枚岩は、米軍の四輪駆動車を使って運ばれました。その後の工事の様子は、平郎門前にある案内板で知ることができます。重機がなかったので、滑車を使って苦労の末、引き上げたようです。
こうして、平郎門の一枚岩の謎が解けました。従って、琉球のグスク時代には、一枚岩は乗っていなかったと考えていいでしょう。
そうすると、門の形はやぐら状の建造物が乗っていた、と言えそうです。

平郎門の工事、昭和37年、案内板より
平郎門前の案内板の写真。滑車を使って一枚岩を持ち上げているところ。



志慶真門(裏門)の想像図、運天肇氏による、ガイドブックより
やぐら状の建造物が乗っている裏門、志慶真門の想像図。運天肇氏による。今帰仁城跡ガイドブックより。


クバの御嶽の遥拝所、サカンケーという
   サカンケーと呼ばれる遥拝所。前方がクバの御嶽。


今帰仁グスクを見下ろすように、クバの御嶽(うたき)があります。標高約189mの山です。クバは和名はビロウでヤシの仲間です。
クバの木が、昔は繁茂していたことから、クバの御嶽と言うようです。

遥拝所は、山に登れない人でも皆と同様に、神々を拝することができる場所なのです。


今泊の人々がクバの御嶽を遥拝する
大勢の人々が遥拝している写真は、今帰仁グスクのお膝元の今泊集落の祭祀です。旧暦5月15日と9月15日におこなわれています。

遥拝所の香炉
 サカンケーとは別の遥拝所。この香炉はいつ置かれたのか定かではない。


一方、クバの御嶽は、琉球王国の重要な御嶽でした。クバの御嶽に涼傘(りゃんさん、ひがさ)が立つと、神が出現したとして、首里城に飛脚を走らせて知らせます。

首里城では、ノロをはじめ国王、家臣が装束を整え鼓を打ち歌を謡ったとされます。神権を重要視した琉球王国ならではの情景かもしれません。

涼傘とはどんなものか、以下の写真でご覧ください。
首里の古式行列で披露された、赤と黄の涼傘です。

以下のような伝承があるので、赤と黄の涼傘が再現されているのでしょう。
「昔、神の出現があるとき、黄涼傘がアフリヌハナ嶽(今帰仁村謝名)に立つと、赤涼傘がクボウヌ嶽(クバの御嶽)に立つ。」または、その逆のこともある。国頭のアフリ嶽に立つこともある。(簡略化して記述)

クバの御嶽に涼傘が見えることがあるでしょうか?これらの不思議な現象は、現代人には見えないのかもしれません。


赤御涼傘,
  首里の古式行列で赤の涼傘を持つ人。


黄御涼傘、首里古式行列で赤と黄のひがさ、りゃんさん
  首里の古式行列で黄の涼傘を持つ人。

涼傘の2枚の写真はTakuye network http://www.takuye.jp/ よりお借りしました。



ビロウ、クバはオキナワ語でクバの御嶽の由来となっている。
この写真がビロウ。沖縄語でクバ。クバの御嶽の由来となっている。
街路樹のワシントンヤシに似ているが、ビロウは葉先が切れて垂れ下がる特徴がある。

現在のクバの御嶽に、一本もクバがないのが実は不思議。


道路の下に城壁が 外郭を歩く(その6)

道路下の石積み1
写真やや中央と下側の二方向からの城壁が、道路で遮断されています。道路下に城壁が埋まっていそうです。


道路下の石積み2
道路下の城壁を実際に見ることができます。電柱のところに石積みが見えます(写真上)。


道路下の石積み3
道路を掘ったところです(写真上)。石積みが確認できます。


道路下の石積み4写真上の城壁が、道路下の石積みへとつながっていきます。三方向からの城壁が道路下でつながっているのです。


外郭西側の広い部分に、どのような建物があったのでしょうか?まだ、よくわかっていません。
中国製や日本製の陶磁器が出土しているので、今帰仁グスクを支える人々が住んでいたかもしれません。

広大な面積の外郭でどのような営みが行われていたのか、今後、発掘調査が進めば明らかになってくることでしょう。

現在、この道路は使われていないため、近い将来、道路下の石積みが復元される日も期待できそうです。


ウーニーは御舟 外郭を歩く(その5)

ウーニーは御舟、今帰仁グスク外郭(1)
写真手前の二つの土盛りが、レコーラウーニーと呼ばれる御舟です。かつては、舟こぎの動作をしてから竹を立てて祈願しました。これが、御舟漕ぎ(ウーニフジ)と呼ばれる伝統行事です。

おこなわれるのは、海神祭(うんじゃみ)という祭祀の初日。旧盆明けの亥の日をはさんで3日間おこなわれるのが海神祭です。


ウーニーは御舟、今帰仁グスク外郭(2)

ウーニーでの祈願、古写真、今帰仁グスク外郭
ウーニーでの祈願古写真。(今泊誌より)


ウーニー案内板の写真、今帰仁グスク外郭
ウーニーでの祈願古写真。(案内板より)


ウーニーで、現ノロと新ノロが共に祈願、今帰仁グスク外郭
2016年の海神祭でおこなわれた、今帰仁ノロによる祈願。白い神衣装が現在のノロで、後継の新ノロへの引継ぎがおこなわれた記念すべき写真。(今帰仁村歴史文化センターFacebookより)

外郭とは、大隅の城壁の外側を指す
外郭とは、大隅の城壁の外側を指します。写真上の、右手奥にあるのが大隅の城壁。

今帰仁グスクを訪れると、まず外郭と呼ばれる広いところに、はいります。外郭東側です。
蛇行した城壁は低いですが、ちゃんと防壁の役目を果たしていました。昔は地面が現在より、およそ1m下にあったらしいので、敵が、容易に乗り越えることはなかったわけです。


外郭東側、蛇行する城壁
                     蛇行する外郭の城壁(写真上)、整備後。




蛇行する外郭城壁、整備中
蛇行する外郭城壁、整備中(写真上)。城壁はかなり残っていたことがわかります。



外郭には、西側があります。こちらへ入ることは、ほとんどありません。
写真下は、復元整備中の外郭西側の城壁です。西側は、元の城壁がほとんど残っていないのがわかります。根石の上に新たな石を乗せて、城壁が復元されました。(写真下)


外郭西側城壁の復元
      外郭西側の城壁、復元整備中の写真。


外郭西側の城壁、復元中2
  外郭西側の城壁、復元整備中の写真。後方にクバの御嶽が見える。


今帰仁グスクの模型、外郭はかなりの面積を占める
上の写真は、100分の1模型で見る外郭の部分で、かなり広い面積です。便宜上、東側と西側に分けて呼んでいます。

今帰仁グスク外郭の監守住居跡1
『薩摩軍の侵攻によって焼き討ちに遭った今帰仁グスク(1609年)。
当時、今帰仁グスクの城主であった監守(かんしゅ)は、城外へ出て、現在の今泊(いまどまり)集落で生活していた。』

この情報が今までの定説でした。

ところが、発掘調査の結果、発掘された陶磁器などからこの住居跡は1600年後半のもの、と判明。
監守は主郭(本丸)を下りたけれど、城外に出たのではなく、外郭にとどまったことになります。
これまでの定説をくつがえしたこの発掘調査結果は、地元新聞に大きく掲載され、注目されました。

琉球新報ウェブ版の記事: 



今帰仁グスク外郭の監守住居跡2
今帰仁グスク外郭にある高官の住居跡(左下)。右手の城壁が大隅の城壁。


今帰仁グスク外郭の監守住居跡3
整備中の監守の住居跡。発掘された基壇の一部を基に復元。


監守とは
今帰仁監守(北山監守)とは、今帰仁グスクに常駐して琉球北部を監視する役職。中山王は北山王(今帰仁)を倒したが、中山(首里城)に対し反乱が起こるのを恐れ、監守職を定めて今帰仁グスクに派遣した。

薩摩軍による焼き討ちの後も、今帰仁グスクに留まったとすれば、当時の監守は六世あるいは七世と思われる。今帰仁村文化財ガイドブックvol.1によれば、六世は伊野波在番勤務(伊野波は現在の本部町)。七世は運天在番勤務(運天港に番所があった)になっている。


監守のプロフィール

  • 今帰仁監守五世kansyu02_R255.jpg
  • 今帰仁監守六世kansyu05_R255.jpg
  • 今帰仁監守七世kansyu03_R255.jpg


  • 今帰仁監守一世kansyu01_R255.jpg
  • 一世の尚韶威(しょう しょうい):第2監守の一世(尚巴志の系統を第1監守、尚円の系統を第2監守という)
  • 五世の向克祉(しょう かつし):薩摩軍の焼き討ちの翌日死亡
  • 六世の向縄祖(しょう じょうそ):伊野波(現在の本部町)在番勤務
  • 七世の向従憲(しょう じゅうけん):1665年首里に帰り居住する、翌年、運天在番勤務となる
漢字表記は、一世のみ、二世以降はと表記する決まりであった。


イラストは運天肇氏 http://www.untenhajime.net/ (今帰仁村文化財ガイドブックvol.1よりお借りしました)


監守についての文献による詳しい解説:琉球史研究リンク集今帰仁コーナー 

今帰仁グスクの巨大な炉跡、ロープが張られている
今帰仁グスクの外郭に、フィドゥンチ(古宇利島の火の神のほこら)と並んで目に付くのが、ロープで囲まれた部分。外郭の調査で発掘された巨大な炉跡で、沖縄県内でも前例がないそうです。

炉跡が発掘された後、陶板に原寸大の写真を焼きつけてタイル状にし、展示されています(写真上)。


写真下が発掘当時の状態。土が熱で焦げて赤くなっています。柱を建てた跡があり、屋根があったのでしょう。

今帰仁グスクの巨大な炉跡、発掘当時の状態
今帰仁グスクの巨大な炉跡、説明版
上の写真の説明板には、炉跡を伴う掘立柱建物跡、とあります。14世紀後半、調理に使われたようです。

14世紀後半は、北山王が三代にわたり、明国へ盛んに朝貢した時代。
北山王は、怕尼芝(はにし)、珉(みん)、攀安知(はんあんち)の三代。

同時に、今帰仁グスク造営が最も盛んだった時期と考えられます。大勢の工事人たちが立ち働いていたはずで、人々の食をまかなったのが、この炉だったのでは。

今帰仁グスクの巨大な炉跡

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