昭和薬科大付属中学1
昭和薬科大学付属中学校の2年生のみなさんが今帰仁城跡を訪れました。スクールバス5台におよそ215名の生徒さんが分乗して来ます。ご案内するガイドは10名。一人が約20名を受け持ちます。

このような大勢のお客様をご案内するときは、当日の担当ガイド全員が30分前に集まり、打ち合わせをおこないます。どのコースで回るのか。記念撮影があるのか。出発時間の確認。何分で回るのか。など、入念な打ち合わせが欠かせません。



昭和薬科大付属中学2
昭和薬科大付属中学3
この日の生徒さんたちは、今帰仁城跡施設内の芝生で昼食です。みなさん楽しそうです。沖縄の地元の生徒さんたちですが、琉球のグスクや歴史を学んでいただける貴重な体験になります。担当ガイド各人の持ち味を生かしながらご案内させていただきました。
またのお越しをお待ちしております。

昭和薬科大学付属中学校は中高一貫教育の私立中学です。沖縄県浦添市にあります。

ご案内中の写真は、ウェブ担当もガイドしているため撮影していません。


毎年、今帰仁城跡を訪れる名門清風高校。
3日の間、参加できるガイド総出でご案内いたしました。
そのときのガイドの様子を少しだけご紹介します。



案内前の打ち合わせが欠かせません
案内当日、こうして打ち合わせがおこなわれます。この日のガイドメンバーは8人、一人が約20名を案内します。

今帰仁城跡の内部のご案内の様子は、ウェブ担当もガイドしているため撮影ができません。



見送りのため集まります
見送りのためバス駐車場に集まります。


当日の反省会も欠かせません
ガイド終了後の反省会も欠かせません。バス出発前のひととき、その日の様子を確認し合います。


バスが出発、見送りします
観光バスが出発。見送ります。


観光バス4台が宿泊先をめざして発車
大型観光バス4台が宿泊先を目指して、今帰仁城跡を出発します。

ガイド養成講座運天港
運天港は今帰仁城跡と関わりの深い港。現地へ行くと、天然の良好と呼ばれた理由がよくわかります。対岸は近いが深さは20mといわれ大型船の往来が可能な港です。



ガイド養成講座運天の古墓
百按司墓(むむじゃなはか)。その名前から多くの按司(有力者)が葬られている墓。運天港にある理由は、船で往来していた時代、港にあるほうが墓参りに便利だから。



ガイド養成講座大北墓
大北墓、うーにしばかと読む。今帰仁城跡を治めた監守一族が葬られている。監守は首里の王家である、尚家一族の一員。一目見て立派なつくりが印象的。

ガイド養成講座2017年7月2日スタート
今帰仁城跡 ガイド養成講座の初日を画像でご紹介します。案内役は1期生の大城さん。

写真左のほうにある円筒形の物体は、鳥居の土台。鳥居は今帰仁城跡の入り口に建っていた高さ10メートルを超える大きなもの。昭和5年に建立、平成15年に撤去されました。今は土台部分を証拠として、今帰仁村歴史文化センターに残してあります。

琉球のグスク 今帰仁城が日本の政策に巻き込まれ、グスクとは関係のない鳥居が建立されたのです。もちろん沖縄県内に神社はありますが、神社と琉球のグスクは信仰の形態が異なっています。

ガイド養成講座のスタートで、こうした日本との関わりを教えられました。炎天下、養成講座の現地案内は続きます。


大鳥居の当時の画像などは「今帰仁村の文化財」http://nakijingusuku.com/culture/2010/03/post-8.html をご覧ください。

2017散策ツアーC (2)運天の古墓群
運天港の海に面した古い墓。ここから散策が始まります。
古い墓は断崖の岩を掘り込んで造られています。昔は風葬だったので、このような場所が選ばれたのでしょうか。




2017散策ツアーC (3)大北墓(ウーニシ墓)
大北墓。ウーニシ墓と読みます。今帰仁グスクを管理した第二監守と家族が葬られています。
監守は、琉球王国時代の王族である尚家の一族なので、墓の造りもひときわ立派です。
伝統的な「今帰仁上り」には、多くの門中(もんちゅう、親族)が訪れます。

この日の案内人は副会長の大田原さん。



2017散策ツアーC (5)大北墓で記念撮影
お墓の前で記念撮影。



2017散策ツアーC (7)ハサギ
ハサギ。ハサギとは、ノロや神人(かみんちゅ)が祈願する所。集落ごとに作られています。軒がとても低いのは、頭をさげ腰をかがめて、神の前に出るようになっているため。ハサギは、後に租税の集積場としても利用されました。



2017散策ツアーC (9)フクギ並木
フクギ並木の集落内を歩く。



2017散策ツアーC (10)大川(ウプガー)
ウプガー。大川と書いてウプガー。カーは湧き水や井戸を指す言葉です。
沖縄島内には、自然の湧き水が多く、水道が引かれるまでは、生活用水に利用されました。今では、コンクリートで固められ農業用水として使われています。



2017散策ツアーC (11)運天トンネル
運天トンネル。長さ約17メートル。ご覧のとおり短いトンネルです。今の姿は、コンクリートできれいに固められています。
大正13年(1924年)に竣工。それまでは、急な山道を登っていたので、村人にとって恵みのトンネルとなりました。



2017散策ツアーC (12)源為朝上陸碑
源為朝上陸碑。沖縄島に為朝が上陸したとの伝説は、根強くあったようです。運を天にまかせて、ここに上陸したから運天と名付けられたという語呂合わせも。
日本と琉球が近縁だという日琉同祖論や、皇民化教育に利用されたというのが、今の歴史認識です。書は東郷平八郎、台座には国頭郡教育部会と刻まれています。



2017散策ツアーC (14)百按司墓(ムムジャナ墓)
百按司墓。ムムジャナ墓と読みます。多くの按司(あじ)が葬られている、という意味ですが、誰が葬られているのかは不明。今帰仁グスクを管理した、第一監守一族ではないか、という説や、北山王の一族ではないか、という説もあります。
墓や周囲の景観がきわだっているので、一見の価値ありの場所です。



2017散策ツアーC (19)散策を終えて
集落へと戻ってきました。運天の史跡めぐりも終了です。

Bコース今泊集落の散策のスナップをご紹介します。

今泊集落は、今帰仁グスクが機能していたとき、グスク直下にあったムラです。グスクを中心に村人たちが、それぞれの役割をはたしていたと考えることができます。賑わっていたことでしょう。

ところが、薩摩軍の襲来により今帰仁グスクは廃城に追い込まれます。そのため、直下にあったムラも海岸沿いにムラごと移動したのです。ムラは2つあって、帰仁ムラと親ムラでした。2つのムラの名前を合わせて、今泊ムラとなったのでした。

見どころがいっぱいの今泊集落、今回の案内人は今帰仁グスクを学ぶ会会長の平良さんでした。


2017散策ツアーBコース今泊集落、公民館前
出発前のひととき。後ろの建物は学校ではなく、今泊公民館。



2017散策ツアーBコース今泊集落、フクギや生垣に囲まれた自然豊かな集落
集落内はフクギ並木や生垣が美しい。



2017散策ツアーBコース今泊集落、チニブと呼ばれる竹垣、学ぶ会が作製設置
竹垣をチニブといいます。今帰仁グスクを学ぶ会のガイドが製作・設置したものです。
集落の景観をよくする効果があります。



2017散策ツアーBコース今泊集落、シルバマと呼ばれる海岸、伊是名・伊平屋島が見える
シルバマと呼ばれる美しい海岸。シルバマとは、尻浜の意で、集落の後ろにある浜という意味です。
島尻(シマジリ)といえば、沖縄島の南部を指します。ちなみに北部は国頭(クニガミ)です。



2017散策ツアーBコース今泊集落、シルバマで記念撮影
シルバマで記念撮影。はるか水平線上に見えるのは、伊是名島。尚円王の出身地です。尚円王とその子孫が400年以上も琉球王国を支配しました。



2017散策ツアーBコース今泊集落、井戸
この古井戸はクビリガーと呼ばれます。深さ3から4メートルくらい。かつては貴重な水源だったのでしょう。砂地を掘っていくと、琉球石灰岩の層に当たり、さらに掘り込むと水脈に達します。沖縄島は意外に井戸が多いのです。井戸(カー)めぐりも興味深いですね。
クビリガーのいわれは、近くの志慶真川下流域が細くくびれていることに由来しています。




2017散策ツアーBコース今泊集落、鍛冶屋
カンジャーヤーガマ。カンジャーヤーは鍛冶屋のこと。ガマは洞窟。鍛冶屋の洞窟という意味です。浅い洞窟内には、鍛冶屋の使ったフイゴが置かれ、拝みの対象となっています。写真で見える四角いものは、香炉です。



2017散策ツアーBコース今泊集落、今帰仁ノロと所蔵の勾玉とかんざし
参加者がカメラを向けているのは、今帰仁ノロの勾玉とかんざしです。首里王府から賜った品です。ノロの証として大切に保管してきたものです。後方は今帰仁ノロ。現役のノロです。高齢のため、娘さんに引き継ぎつつあります。

ノロとは琉球王国で祭祀を務めた役職。首里王府から辞令書が手渡されます。今帰仁ノロは3つのムラの祭祀をおこないました。



今泊集落のツアーは、予約がはいり次第催行されます。

Aコースは、グスク時代の登城道「ハンタ道」を登り、今帰仁グスクまで歩きます。
琉球のグスク時代の道が保存されていて、今でも歩ける。まさに歴史の道です。

2017散策A1班、グスクの発掘現場で
  今帰仁グスクの発掘現場で文化財係の方から説明を受けています


2017散策A1班 (3)、物見台ミームングスク
  物見台とされるミームングスク


2017散策A1班 (6)、散策を終えて記念撮影
  散策を終えて記念撮影 A1班の皆さん


2017散策A2班 (8)、散策を終えて記念撮影
  散策を終えて記念撮影 A2班の皆さん

バスガイドさんが知っていた平郎門の謎

平郎門の謎、階段とのずれ
  写真上の門から続く階段は、よく見ると、少しズレが生じている。


以前、バスガイドさんが平郎門の所で、案内するのを何度か聞いたことがあります。
「門の修理工事中に、根石が発見されたため、設計図通りでなく根石に合わせるように門の位置を直しました。だから、階段(七五三の階段)と平郎門は少しズレているのです。」
という案内でした。

この門と階段のズレは、普段は気がつきませんが、気づいた人にとっては謎です。

あるバス会社のバスガイドさんたちが案内する内容なので、マニュアルに載っていたのでしょう。(現在は案内を聞く機会がないので、どんな案内をなさっているのかわかりません。)


平郎門の謎2、門の根石にあわせて修理した
  平郎門の根石、中央の大きな石が根石。


ブログ記事 「平郎門の修理工事
http://nakijingusuku.com/culture/2010/04/post-12.html より根石の写真をお借りしました。宮城弘樹さんは記事の中で、
平郎門は創作だ、という意見があるけれど、根石に合わせて門の位置を決めるという、現在の修復作業と同じように正確な修理をおこなったことを評価しています。
(宮城弘樹さんは、以前、今帰仁村文化財係に勤務、われわれガイドを指導中にブログ記事を投稿していただきました。)

平郎門工事前
今帰仁グスクの正門は平郎門と呼ばれます。前回の投稿では、大石を運んできて、門の上に乗せる大工事をおこなったことを紹介しました。

上の写真は平郎門の工事を始める前に、起工式をおこなった時の記録写真の中の1枚です。1961年12月のことで、今からおよそ55年前。旧型の自動車が止まっている道は石畳道になっています。現在歩いている道で、すでに造られていたことがわかります。さらに、上のほうに向かって階段が見え、階段がすでに造られていたことがわかります。七五三の階段と呼ばれる、今使われている階段です。
2本の松の後ろには、城壁がそびえていて、この部分の城壁はよく保存されていたのがわかります。なぜ、平郎門は無くなっていたのか、今でも謎です。

起工式の集合写真には22名の参加者が写っており、主だった人たちは琉球政府文化財保護委員会のメンバーと思われます。その後何度か、文化財保護委員会は今帰仁グスクへ訪れ、工事の進捗状況確認や工事人との打ち合わせをおこなっています。


平郎門工事中のようす
平郎門工事中のようす2
上の写真2枚は、工事を担当した地元今泊集落の人々と思われます。平郎門は途中まで出来ている様子がわかります。


平郎門の図面
図面は平郎門の設計図で、赤く塗ったところが工事箇所です。当時の著名な設計士の手による図面のようです。

こうして、琉球政府文化財保護委員会と工事を請け負った地元の人たちとの共同作業により、平郎門が出来上がりました。
創作と言われることもある平郎門ですが、記録写真を見ると修復作業に当たった人々の苦労の末に完成したことが読み取れます。

下の写真は、完成した平郎門。左には史跡今帰仁城跡の碑が立っているので、1972年の本土復帰以降の写真と思われます。

完成した平郎門
写真や図面、参考資料は「平郎門の修理工事」(1)~(9)http://nakijingusuku.com/culture/2010/04/post-9.html よりお借りしました。さらに興味ある方はご参考になさってください。

平郎門の謎が解けた日

平郎門全景、一枚岩が重厚な造りを感じさせる

平郎門は今帰仁グスクの正門です。一枚岩を載せた重厚な造り、と表現されて人気のある門です。しかし、琉球政府時代の復元であり、復元の基になった資料などは残っていません。設計図はありますが、古老に聞き取り調査した内容を基にしたというだけで、いまひとつ決め手がありません。


あるとき、ガイドの岸本さんが作業した人と知り合い、その方から一枚岩の出所と、作業時の様子を聞くことができました。
下は岸本さんが写真入りで公表してくれた画像です。

平郎門の石の出所(1)
地図を見ると平郎門の石は、県道を少し下ったところから採取したことがわかります。(地図左側)

平郎門に使われた一枚岩は、米軍の四輪駆動車を使って運ばれました。その後の工事の様子は、平郎門前にある案内板で知ることができます。重機がなかったので、滑車を使って苦労の末、引き上げたようです。
こうして、平郎門の一枚岩の謎が解けました。従って、琉球のグスク時代には、一枚岩は乗っていなかったと考えていいでしょう。
そうすると、門の形はやぐら状の建造物が乗っていた、と言えそうです。

平郎門の工事、昭和37年、案内板より
平郎門前の案内板の写真。滑車を使って一枚岩を持ち上げているところ。



志慶真門(裏門)の想像図、運天肇氏による、ガイドブックより
やぐら状の建造物が乗っている裏門、志慶真門の想像図。運天肇氏による。今帰仁城跡ガイドブックより。


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