薩摩の焼き討ち後、今帰仁監守は此処に 外郭を歩く(その3)

今帰仁グスク外郭の監守住居跡1
『薩摩軍の侵攻によって焼き討ちに遭った今帰仁グスク(1609年)。
当時、今帰仁グスクの城主であった監守(かんしゅ)は、城外へ出て、現在の今泊(いまどまり)集落で生活していた。』

この情報が今までの定説でした。

ところが、発掘調査の結果、発掘された陶磁器などからこの住居跡は1600年後半のもの、と判明。
監守は主郭(本丸)を下りたけれど、城外に出たのではなく、外郭にとどまったことになります。
これまでの定説をくつがえしたこの発掘調査結果は、地元新聞に大きく掲載され、注目されました。

琉球新報ウェブ版の記事: 



今帰仁グスク外郭の監守住居跡2
今帰仁グスク外郭にある高官の住居跡(左下)。右手の城壁が大隅の城壁。


今帰仁グスク外郭の監守住居跡3
整備中の監守の住居跡。発掘された基壇の一部を基に復元。


監守とは
今帰仁監守(北山監守)とは、今帰仁グスクに常駐して琉球北部を監視する役職。中山王は北山王(今帰仁)を倒したが、中山(首里城)に対し反乱が起こるのを恐れ、監守職を定めて今帰仁グスクに派遣した。

薩摩軍による焼き討ちの後も、今帰仁グスクに留まったとすれば、当時の監守は六世あるいは七世と思われる。今帰仁村文化財ガイドブックvol.1によれば、六世は伊野波在番勤務(伊野波は現在の本部町)。七世は運天在番勤務(運天港に番所があった)になっている。


監守のプロフィール

  • 今帰仁監守五世kansyu02_R255.jpg
  • 今帰仁監守六世kansyu05_R255.jpg
  • 今帰仁監守七世kansyu03_R255.jpg


  • 今帰仁監守一世kansyu01_R255.jpg
  • 一世の尚韶威(しょう しょうい):第2監守の一世(尚巴志の系統を第1監守、尚円の系統を第2監守という)
  • 五世の向克祉(しょう かつし):薩摩軍の焼き討ちの翌日死亡
  • 六世の向縄祖(しょう じょうそ):伊野波(現在の本部町)在番勤務
  • 七世の向従憲(しょう じゅうけん):1665年首里に帰り居住する、翌年、運天在番勤務となる
漢字表記は、一世のみ、二世以降はと表記する決まりであった。


イラストは運天肇氏 http://www.untenhajime.net/ (今帰仁村文化財ガイドブックvol.1よりお借りしました)


監守についての文献による詳しい解説:琉球史研究リンク集今帰仁コーナー 

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