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バスガイドさんが知っていた平郎門の謎

平郎門の謎、階段とのずれ
  写真上の門から続く階段は、よく見ると、少しズレが生じている。


以前、バスガイドさんが平郎門の所で、案内するのを何度か聞いたことがあります。
「門の修理工事中に、根石が発見されたため、設計図通りでなく根石に合わせるように門の位置を直しました。だから、階段(七五三の階段)と平郎門は少しズレているのです。」
という案内でした。

この門と階段のズレは、普段は気がつきませんが、気づいた人にとっては謎です。

あるバス会社のバスガイドさんたちが案内する内容なので、マニュアルに載っていたのでしょう。(現在は案内を聞く機会がないので、どんな案内をなさっているのかわかりません。)


平郎門の謎2、門の根石にあわせて修理した
  平郎門の根石、中央の大きな石が根石。


ブログ記事 「平郎門の修理工事
http://nakijingusuku.com/culture/2010/04/post-12.html より根石の写真をお借りしました。宮城弘樹さんは記事の中で、
平郎門は創作だ、という意見があるけれど、根石に合わせて門の位置を決めるという、現在の修復作業と同じように正確な修理をおこなったことを評価しています。
(宮城弘樹さんは、以前、今帰仁村文化財係に勤務、われわれガイドを指導中にブログ記事を投稿していただきました。)

平郎門工事前
今帰仁グスクの正門は平郎門と呼ばれます。前回の投稿では、大石を運んできて、門の上に乗せる大工事をおこなったことを紹介しました。

上の写真は平郎門の工事を始める前に、起工式をおこなった時の記録写真の中の1枚です。1961年12月のことで、今からおよそ55年前。旧型の自動車が止まっている道は石畳道になっています。現在歩いている道で、すでに造られていたことがわかります。さらに、上のほうに向かって階段が見え、階段がすでに造られていたことがわかります。七五三の階段と呼ばれる、今使われている階段です。
2本の松の後ろには、城壁がそびえていて、この部分の城壁はよく保存されていたのがわかります。なぜ、平郎門は無くなっていたのか、今でも謎です。

起工式の集合写真には22名の参加者が写っており、主だった人たちは琉球政府文化財保護委員会のメンバーと思われます。その後何度か、文化財保護委員会は今帰仁グスクへ訪れ、工事の進捗状況確認や工事人との打ち合わせをおこなっています。


平郎門工事中のようす
平郎門工事中のようす2
上の写真2枚は、工事を担当した地元今泊集落の人々と思われます。平郎門は途中まで出来ている様子がわかります。


平郎門の図面
図面は平郎門の設計図で、赤く塗ったところが工事箇所です。当時の著名な設計士の手による図面のようです。

こうして、琉球政府文化財保護委員会と工事を請け負った地元の人たちとの共同作業により、平郎門が出来上がりました。
創作と言われることもある平郎門ですが、記録写真を見ると修復作業に当たった人々の苦労の末に完成したことが読み取れます。

下の写真は、完成した平郎門。左には史跡今帰仁城跡の碑が立っているので、1972年の本土復帰以降の写真と思われます。

完成した平郎門
写真や図面、参考資料は「平郎門の修理工事」(1)~(9)http://nakijingusuku.com/culture/2010/04/post-9.html よりお借りしました。さらに興味ある方はご参考になさってください。

平郎門の謎が解けた日

平郎門全景、一枚岩が重厚な造りを感じさせる

平郎門は今帰仁グスクの正門です。一枚岩を載せた重厚な造り、と表現されて人気のある門です。しかし、琉球政府時代の復元であり、復元の基になった資料などは残っていません。設計図はありますが、古老に聞き取り調査した内容を基にしたというだけで、いまひとつ決め手がありません。


あるとき、ガイドの岸本さんが作業した人と知り合い、その方から一枚岩の出所と、作業時の様子を聞くことができました。
下は岸本さんが写真入りで公表してくれた画像です。

平郎門の石の出所(1)
地図を見ると平郎門の石は、県道を少し下ったところから採取したことがわかります。(地図左側)

平郎門に使われた一枚岩は、米軍の四輪駆動車を使って運ばれました。その後の工事の様子は、平郎門前にある案内板で知ることができます。重機がなかったので、滑車を使って苦労の末、引き上げたようです。
こうして、平郎門の一枚岩の謎が解けました。従って、琉球のグスク時代には、一枚岩は乗っていなかったと考えていいでしょう。
そうすると、門の形はやぐら状の建造物が乗っていた、と言えそうです。

平郎門の工事、昭和37年、案内板より
平郎門前の案内板の写真。滑車を使って一枚岩を持ち上げているところ。



志慶真門(裏門)の想像図、運天肇氏による、ガイドブックより
やぐら状の建造物が乗っている裏門、志慶真門の想像図。運天肇氏による。今帰仁城跡ガイドブックより。


クバの御嶽の遥拝所、サカンケーという
   サカンケーと呼ばれる遥拝所。前方がクバの御嶽。


今帰仁グスクを見下ろすように、クバの御嶽(うたき)があります。標高約189mの山です。クバは和名はビロウでヤシの仲間です。
クバの木が、昔は繁茂していたことから、クバの御嶽と言うようです。

遥拝所は、山に登れない人でも皆と同様に、神々を拝することができる場所なのです。


今泊の人々がクバの御嶽を遥拝する
大勢の人々が遥拝している写真は、今帰仁グスクのお膝元の今泊集落の祭祀です。旧暦5月15日と9月15日におこなわれています。

遥拝所の香炉
 サカンケーとは別の遥拝所。この香炉はいつ置かれたのか定かではない。


一方、クバの御嶽は、琉球王国の重要な御嶽でした。クバの御嶽に涼傘(りゃんさん、ひがさ)が立つと、神が出現したとして、首里城に飛脚を走らせて知らせます。

首里城では、ノロをはじめ国王、家臣が装束を整え鼓を打ち歌を謡ったとされます。神権を重要視した琉球王国ならではの情景かもしれません。

涼傘とはどんなものか、以下の写真でご覧ください。
首里の古式行列で披露された、赤と黄の涼傘です。

以下のような伝承があるので、赤と黄の涼傘が再現されているのでしょう。
「昔、神の出現があるとき、黄涼傘がアフリヌハナ嶽(今帰仁村謝名)に立つと、赤涼傘がクボウヌ嶽(クバの御嶽)に立つ。」または、その逆のこともある。国頭のアフリ嶽に立つこともある。(簡略化して記述)

クバの御嶽に涼傘が見えることがあるでしょうか?これらの不思議な現象は、現代人には見えないのかもしれません。


赤御涼傘,
  首里の古式行列で赤の涼傘を持つ人。


黄御涼傘、首里古式行列で赤と黄のひがさ、りゃんさん
  首里の古式行列で黄の涼傘を持つ人。

涼傘の2枚の写真はTakuye network http://www.takuye.jp/ よりお借りしました。



ビロウ、クバはオキナワ語でクバの御嶽の由来となっている。
この写真がビロウ。沖縄語でクバ。クバの御嶽の由来となっている。
街路樹のワシントンヤシに似ているが、ビロウは葉先が切れて垂れ下がる特徴がある。

現在のクバの御嶽に、一本もクバがないのが実は不思議。


道路の下に城壁が 外郭を歩く(その6)

道路下の石積み1
写真やや中央と下側の二方向からの城壁が、道路で遮断されています。道路下に城壁が埋まっていそうです。


道路下の石積み2
道路下の城壁を実際に見ることができます。電柱のところに石積みが見えます(写真上)。


道路下の石積み3
道路を掘ったところです(写真上)。石積みが確認できます。


道路下の石積み4写真上の城壁が、道路下の石積みへとつながっていきます。三方向からの城壁が道路下でつながっているのです。


外郭西側の広い部分に、どのような建物があったのでしょうか?まだ、よくわかっていません。
中国製や日本製の陶磁器が出土しているので、今帰仁グスクを支える人々が住んでいたかもしれません。

広大な面積の外郭でどのような営みが行われていたのか、今後、発掘調査が進めば明らかになってくることでしょう。

現在、この道路は使われていないため、近い将来、道路下の石積みが復元される日も期待できそうです。


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