テッポウユリが満開です

外郭城壁とテッポウユリ
今帰仁グスクの外郭に、テッポウユリが満開です。

普段なにげなく見ている城壁も、純白のユリの花に映えています。

城壁沿いの花は植栽したユリですが、そのほかのところは在来の自生種もあります。


大隅の城壁とテッポウユリ

大隅の城壁とテッポウユリ2


大庭(うーみゃー)に咲くテッポウユリ

テッポウユリ
今帰仁グスクで、テッポウユリが咲いています。純白の花が印象的。

テッポウユリは、面白いことに、交配種を植えるとやがて消えてしまいます。今咲いているのは、在来種です。


写真上は大庭(うーみゃー)の郭。琉球の時代から数年前まで、年中祭祀(宗教的儀式)がおこなわれた庭です。
写真右奥に見えるのは、志慶真乙樽(しげまうとぅだる)の歌碑。その奥に香炉がひとつ置かれ、かつての儀式をわずかながら偲ぶことができます。

ウマノアシガタ、今帰仁グスクに咲く

ウマノアシガタ1

ウマノアシガタ2

ウマノアシガタ。
馬の足型?

馬の足の形には見えませんが、写真の花は、ウマノアシガタといいます。

何かの間違いから、このように呼ばれるようになったらしいです。
参考:今帰仁城跡周辺の自然「ウマノアシガタ

ピカピカ光っている花は、濡れているのではなく、こういう色つやなのです。
きれいな花ですが、キンポウゲ科の植物なので、有毒ですから注意が必要です。

今帰仁グスク周辺では、ほとんど見られないようで、貴重な植物になっています。

写真は、今帰仁グスク内に咲くウマノアシガタ。


40年前の今帰仁城跡入場券

40年前の今帰仁城跡入場券
写真は40年前の今帰仁城跡の入場券です。最近、今帰仁グスクを訪れたお客様が見せてくれたものです。


北山城跡と右上に印刷されており、写真は平郎門(正門)です。右端にチケット販売の小屋の屋根がわずかに見えます。
左側の言葉は志慶真乙樽(しげまうとぅだる)の琉歌です。

大人Adalt(Adult が正解ですが)、小人Child の英語表記が沖縄らしいかもしれません。

入場料は50円、右下のスタンプは昭和48年です。
沖縄が日本に復帰?したのは昭和47年(1972年)です。パスポートがなければ入国できなかった時代から、沖縄が日本の一県になった記念すべき年です。

その復帰の翌年に、このチケットのお客様は入場したことになります。
このチケットを持って来られたお客様にとって、記念すべき入場券だったにちがいありません。40年も大切に保管していたのですから。


この記事の投稿者は、やはり昭和48年くらいに沖縄の地に下り立ちました。そのときは、今帰仁城跡は知らなかったので、首里城跡の龍潭池(りゅうたんいけ)を訪れました。
このチケットのお客様にお会いできたら、当時の沖縄のようすを語り合えるのですが、、。


昭和47年に今帰仁グスクは日本国の史跡に指定された
上の画像で、右側の碑は、昭和47年5月15日復帰の当日に、日本国の史跡に指定された記念碑。

ガイド有志がチニブを作っています

チニブ作り1
チニブとは、写真のようなもので、竹製です。実際に作ってみると、なかなか難しく、きれいに作るには熟練が必要です。
それでも、実用に耐えるものが完成しました。必要枚数に達するまで、作業はまだまだ続きます。

これらのチニブは今泊集落の2件の民家に設置されます。完成披露は7月20日(日)の予定です。
それまで、毎週水曜日に今泊公民館で製作がおこなわれます。


チニブ作り2
チニブ作り3

今帰仁グスクのさくらんぼが最盛期

今帰仁グスクのさくらんぼ(1)
今帰仁グスクの緋寒桜に、さくらんぼが実って枝も重そうです。上の写真は、平郎門(正門)を入って、参道(七五三の階段)を見たところ。



今帰仁グスクのさくらんぼ(2)
下の写真は、参道から平郎門を見たところ。門の左右に黒く見えるのは、のぞき窓から外をうかがう門番の立つところです。

しばらくは、さくらんぼが楽しめそうです。

今帰仁グスクに、さくらんぼ色づく

今帰仁城跡の緋寒桜に、さくらんぼがたわわに実り、色づいています。

県外ではこれから桜の季節を迎えるのですが、沖縄はすでにさくらんぼが実り、早朝には野鳥が実を食べに来ます。
人間も食べられますが、真っ赤にならないと渋いです。野鳥よりも早く登城すれば、真っ赤な実が手に入るでしょう。

先週、アオバトが飛来してきました。緑色のきれいな鳩で、久しぶりに見ることができました。


琉球新報が今帰仁城跡のさくらんぼを報じていましたので、以下に引用させていただきます。

琉球新報の記事、今帰仁グスクにさくらんぼ色づく

津屋口墓
今泊集落内にある北山監守三世和賢の墓



なぜか一人離れて葬られた北山監守、三世和賢の墓は今泊集落内にあります。 


今帰仁グスクの城主たちは、時代と共に移り変わりがあります。グスク時代には、按司あるいは北山王と呼ばれました。歴史に登場する人物としては北山王が3代にわたって君臨しました。

琉球王国の時代には監守が、管理人として首里から派遣され、今帰仁グスクの城主となりました。


北山監守 三世和賢(今帰仁城跡 今帰仁村文化財ガイドブックより)
 北山監守 三世和賢


一人ぼっちの三世和賢は、第2監守時代の人で、わずか35歳で亡くなりました。1591年のことです。監守一族は運天港にある大北(うーにし)墓に葬られたのですが、三世和賢は例外で今泊集落内墓に葬られたのです。

おそらく、病気で亡くなったのでしょう。今帰仁ノロのご主人の話によると伝染性の病だったらしいということです。

この墓は、通称アカンバカと言われ、墓の入口が閉ざされていて開かないからでしょうか。正式名は津屋口(つやぐち)墓、地元ではちぇーぐち墓と呼びます。


入口が閉ざされているのでアカンバカと呼ばれる
 墓の入口が閉ざされているのでアカンバカと呼ばれる、
北山監守三世和賢の墓


第2監守一族が今帰仁グスクに常駐したのは、一世韶威(しょうい)から七世従憲(じゅうけん)までの7代です。三世を除く二世から七世までが、運天港にある大北(うーにし)墓に葬られています。

監守の勤めを終えた監守たちは、初めは今帰仁グスク近くの「うつりたまい」と呼ばれる墓に葬られたのですが、墓が崩落したということで運天港に移葬されました。 なお、一世は首里の玉陵(たまうどぅん=王家の墓)に葬られています。

大北墓は監守と一族が葬られている
大北(うーにし)墓には北山監守とその一族が葬られている
りっぱな墓です



北山監守のイメージです。

北山監守 (今帰仁城跡 今帰仁村文化財ガイドブックより)
北山監守一世から六世


北山監守2 (今帰仁城跡 今帰仁村文化財ガイドブックより)
北山監守七世から十一世

北山監守の絵は今帰仁城跡 今帰仁村文化財ガイドブックよりお借りしました。

僧侶のレリーフのある厨子甕1
僧侶のレリーフのある厨子甕2
御嶽(うたき)や拝所をご案内すると、お客様から「仏教は伝来しなかったのですか?」あるいは「琉球・沖縄の宗教はどんなものですか?」と、ご質問があります。

今帰仁グスクのある今帰仁村には、お寺は一つもありませんし、北部全体でもわずかしかありません。 


 僧侶がレリーフになった厨子甕(ずしがめ)を、発掘調査報告書に見つけました。厨子甕とは、埋葬のために骨をいれる壷のことです。 

写真を見ると、明らかに僧侶の姿がレリーフ(浮き彫り)になっています。複数の僧侶が墓を囲んでいるデザインも見られます。 

この厨子甕は、運天港近くの百按司(むむじゃな)墓と大北(うーにし)墓付近から見つかったものです。 

2つの墓とも、今帰仁グスクに関わりのある人々が葬られています。 これらの厨子甕の製造年代は、発掘調査記録によると、17世紀から18世紀の近世期の製造とのことです。 近世期には、埋葬と仏教が関わっていたと考えられそうです。

百按司墓自体の成立年代は古琉球まで遡る可能性は高いが、一方で大北墓の被葬者は1570年頃?1687年頃の人物が葬られており、近世期にかけて継続的に墓群が利用され続けた事をうかがい知ることができる。 

 また、大北墓周辺で回収された厨子甕(かめ)も、製造年代についてこれまでの研究を参考にすると、17世紀から18世紀と近世全般に及んでいる。(今帰仁村文化財調査報告書第33集「運天古墓群?」より)

画像は今帰仁村文化財調査報告書より


琉球王国の時代には、王家の菩提寺が首里城近くにありました。僧侶は、日本から渡来し、明国との間の通訳として外交におおいに力を発揮したようです。

ライトアップされた大隅の城壁
(上の画像は大隅の城壁)


ライトアップされた城壁と桜を見てきました。ガイドにとっては普段から見慣れた場所ですが、ライトアップされた夜景は別世界のようです。


外郭の城壁もライトアップされました
外郭の城壁は高くありませんが、蛇行していて外敵を寄せ付けない感じがします。
平らな石積みは、復元された高官の住居跡。



フィドゥンチ火の神のライトアップ
古宇利殿内(フィドゥンチ)火の神(ひぬかん)。こじんまりとしておしゃれな火の神です。



ライトアップされた大隅の城壁(2)
大隅の城壁の曲線が明かりに映えて美しい。



参道沿いにローソクが点灯、夜桜が映えます
参道、七五三の階段にはローソクの明かりが点ります。緋寒桜は、ほぼ満開。ライトに映えています。



ライトアップされた緋寒桜
平郎門近くの桜です。

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