40年前の今帰仁城跡入場券

40年前の今帰仁城跡入場券
写真は40年前の今帰仁城跡の入場券です。最近、今帰仁グスクを訪れたお客様が見せてくれたものです。


北山城跡と右上に印刷されており、写真は平郎門(正門)です。右端にチケット販売の小屋の屋根がわずかに見えます。
左側の言葉は志慶真乙樽(しげまうとぅだる)の琉歌です。

大人Adalt(Adult が正解ですが)、小人Child の英語表記が沖縄らしいかもしれません。

入場料は50円、右下のスタンプは昭和48年です。
沖縄が日本に復帰?したのは昭和47年(1972年)です。パスポートがなければ入国できなかった時代から、沖縄が日本の一県になった記念すべき年です。

その復帰の翌年に、このチケットのお客様は入場したことになります。
このチケットを持って来られたお客様にとって、記念すべき入場券だったにちがいありません。40年も大切に保管していたのですから。


この記事の投稿者は、やはり昭和48年くらいに沖縄の地に下り立ちました。そのときは、今帰仁城跡は知らなかったので、首里城跡の龍潭池(りゅうたんいけ)を訪れました。
このチケットのお客様にお会いできたら、当時の沖縄のようすを語り合えるのですが、、。


昭和47年に今帰仁グスクは日本国の史跡に指定された
上の画像で、右側の碑は、昭和47年5月15日復帰の当日に、日本国の史跡に指定された記念碑。

ガイド有志がチニブを作っています

チニブ作り1
チニブとは、写真のようなもので、竹製です。実際に作ってみると、なかなか難しく、きれいに作るには熟練が必要です。
それでも、実用に耐えるものが完成しました。必要枚数に達するまで、作業はまだまだ続きます。

これらのチニブは今泊集落の2件の民家に設置されます。完成披露は7月20日(日)の予定です。
それまで、毎週水曜日に今泊公民館で製作がおこなわれます。


チニブ作り2
チニブ作り3

今帰仁グスクのさくらんぼが最盛期

今帰仁グスクのさくらんぼ(1)
今帰仁グスクの緋寒桜に、さくらんぼが実って枝も重そうです。上の写真は、平郎門(正門)を入って、参道(七五三の階段)を見たところ。



今帰仁グスクのさくらんぼ(2)
下の写真は、参道から平郎門を見たところ。門の左右に黒く見えるのは、のぞき窓から外をうかがう門番の立つところです。

しばらくは、さくらんぼが楽しめそうです。

今帰仁グスクに、さくらんぼ色づく

今帰仁城跡の緋寒桜に、さくらんぼがたわわに実り、色づいています。

県外ではこれから桜の季節を迎えるのですが、沖縄はすでにさくらんぼが実り、早朝には野鳥が実を食べに来ます。
人間も食べられますが、真っ赤にならないと渋いです。野鳥よりも早く登城すれば、真っ赤な実が手に入るでしょう。

先週、アオバトが飛来してきました。緑色のきれいな鳩で、久しぶりに見ることができました。


琉球新報が今帰仁城跡のさくらんぼを報じていましたので、以下に引用させていただきます。

琉球新報の記事、今帰仁グスクにさくらんぼ色づく

津屋口墓
今泊集落内にある北山監守三世和賢の墓



なぜか一人離れて葬られた北山監守、三世和賢の墓は今泊集落内にあります。 


今帰仁グスクの城主たちは、時代と共に移り変わりがあります。グスク時代には、按司あるいは北山王と呼ばれました。歴史に登場する人物としては北山王が3代にわたって君臨しました。

琉球王国の時代には監守が、管理人として首里から派遣され、今帰仁グスクの城主となりました。


北山監守 三世和賢(今帰仁城跡 今帰仁村文化財ガイドブックより)
 北山監守 三世和賢


一人ぼっちの三世和賢は、第2監守時代の人で、わずか35歳で亡くなりました。1591年のことです。監守一族は運天港にある大北(うーにし)墓に葬られたのですが、三世和賢は例外で今泊集落内墓に葬られたのです。

おそらく、病気で亡くなったのでしょう。今帰仁ノロのご主人の話によると伝染性の病だったらしいということです。

この墓は、通称アカンバカと言われ、墓の入口が閉ざされていて開かないからでしょうか。正式名は津屋口(つやぐち)墓、地元ではちぇーぐち墓と呼びます。


入口が閉ざされているのでアカンバカと呼ばれる
 墓の入口が閉ざされているのでアカンバカと呼ばれる、
北山監守三世和賢の墓


第2監守一族が今帰仁グスクに常駐したのは、一世韶威(しょうい)から七世従憲(じゅうけん)までの7代です。三世を除く二世から七世までが、運天港にある大北(うーにし)墓に葬られています。

監守の勤めを終えた監守たちは、初めは今帰仁グスク近くの「うつりたまい」と呼ばれる墓に葬られたのですが、墓が崩落したということで運天港に移葬されました。 なお、一世は首里の玉陵(たまうどぅん=王家の墓)に葬られています。

大北墓は監守と一族が葬られている
大北(うーにし)墓には北山監守とその一族が葬られている
りっぱな墓です



北山監守のイメージです。

北山監守 (今帰仁城跡 今帰仁村文化財ガイドブックより)
北山監守一世から六世


北山監守2 (今帰仁城跡 今帰仁村文化財ガイドブックより)
北山監守七世から十一世

北山監守の絵は今帰仁城跡 今帰仁村文化財ガイドブックよりお借りしました。

僧侶のレリーフのある厨子甕1
僧侶のレリーフのある厨子甕2
御嶽(うたき)や拝所をご案内すると、お客様から「仏教は伝来しなかったのですか?」あるいは「琉球・沖縄の宗教はどんなものですか?」と、ご質問があります。

今帰仁グスクのある今帰仁村には、お寺は一つもありませんし、北部全体でもわずかしかありません。 


 僧侶がレリーフになった厨子甕(ずしがめ)を、発掘調査報告書に見つけました。厨子甕とは、埋葬のために骨をいれる壷のことです。 

写真を見ると、明らかに僧侶の姿がレリーフ(浮き彫り)になっています。複数の僧侶が墓を囲んでいるデザインも見られます。 

この厨子甕は、運天港近くの百按司(むむじゃな)墓と大北(うーにし)墓付近から見つかったものです。 

2つの墓とも、今帰仁グスクに関わりのある人々が葬られています。 これらの厨子甕の製造年代は、発掘調査記録によると、17世紀から18世紀の近世期の製造とのことです。 近世期には、埋葬と仏教が関わっていたと考えられそうです。

百按司墓自体の成立年代は古琉球まで遡る可能性は高いが、一方で大北墓の被葬者は1570年頃?1687年頃の人物が葬られており、近世期にかけて継続的に墓群が利用され続けた事をうかがい知ることができる。 

 また、大北墓周辺で回収された厨子甕(かめ)も、製造年代についてこれまでの研究を参考にすると、17世紀から18世紀と近世全般に及んでいる。(今帰仁村文化財調査報告書第33集「運天古墓群?」より)

画像は今帰仁村文化財調査報告書より


琉球王国の時代には、王家の菩提寺が首里城近くにありました。僧侶は、日本から渡来し、明国との間の通訳として外交におおいに力を発揮したようです。

ライトアップされた大隅の城壁
(上の画像は大隅の城壁)


ライトアップされた城壁と桜を見てきました。ガイドにとっては普段から見慣れた場所ですが、ライトアップされた夜景は別世界のようです。


外郭の城壁もライトアップされました
外郭の城壁は高くありませんが、蛇行していて外敵を寄せ付けない感じがします。
平らな石積みは、復元された高官の住居跡。



フィドゥンチ火の神のライトアップ
古宇利殿内(フィドゥンチ)火の神(ひぬかん)。こじんまりとしておしゃれな火の神です。



ライトアップされた大隅の城壁(2)
大隅の城壁の曲線が明かりに映えて美しい。



参道沿いにローソクが点灯、夜桜が映えます
参道、七五三の階段にはローソクの明かりが点ります。緋寒桜は、ほぼ満開。ライトに映えています。



ライトアップされた緋寒桜
平郎門近くの桜です。

今泊集落の案内板でガイドがコースを説明

今泊集落の案内板、拡大できます
今泊集落の散策は、今泊の案内図からスタート。地図をご覧ください。集落内は整然と道が通っていて、格子状集落になっています。沖縄県内でも非常に珍しい集落の形態です。


現在の今帰仁ノロ殿内(ノロの屋敷)
現代の今帰仁ノロ殿内(なきじんのろどぅんち)。今帰仁ノロを務めるのは仲尾次さん。広い敷地内には珍しいリュウガンの大木があります。


志慶真乙樽の墓は今帰仁グスクと泳ぐ魚が見える場所にある
志慶真川の対岸にある志慶真乙樽(しげまうとぅだる)の墓。乙樽は今帰仁御神(なきじんうかみ)と呼ばれるほど徳の高いグスク時代の女性で、今帰仁村では今でも敬われています。

遺言により、今帰仁グスクを望み魚の泳ぐ姿の見えるところに、墓が造られました。今帰仁グスクの大庭(うーみゃー)には、乙樽を詠んだ琉歌の歌碑が建っています。



今泊で生まれ育った上間さんの案内
今泊で生まれ育った上間さんの案内に聞き入る参加者たち。



御殿屋敷跡
御殿ガー、井戸
御殿屋敷跡(うどぅんやしきあと、上)と井戸



カンジャーヤー(鍛冶屋)の位牌と図像
カンジャーヤーの仏壇。位牌と香炉などが3段に置かれている。数点の図像は信仰の対象ともなっていた。


カンジャーヤー(鍛冶屋)の跡、洞内にはフイゴが置かれている
洞の中にはフイゴが置かれている
カンジャーヤーとは鍛冶屋のこと。洞窟周辺は鍛冶場の跡で、洞窟内にはフイゴが置かれ、拝所となっている。


カンジャーヤー跡のすぐ側には海が広がっている
カンジャーヤーのすぐ側には海が広がる。



集落内の十字路
集落内の交差点。交差点には魔よけのための石敢當が設置されている。



津屋口墓は監守三世の墓、何故ここに?
津屋口(つやぐち、ちぇーぐち)墓。別名のあかん墓は、墓が塞がれていることから名づけられた。北山監守三世の和賢(わけん)が葬られている。三世が一人だけ離されているのは、伝染性の病気のためと伝えられる。



シルバマは白浜のこと、伊是名・伊平屋島が見える
シルバマは白浜のこと。伊是名、伊平屋島が見えるきれいな海岸です。


集落内ではフクギ並木が家々を囲んでいる
集落内のフクギ並木は屋敷を囲む防風林で、今では貴重な景観となっています。



オーレーウドゥン(阿応理屋恵殿内)、かつて阿応理屋恵ノロの屋敷があった
オーレーウドゥンの中には香炉と花が

かつての阿応理屋恵の屋敷跡、今は畑に
オーレーウドゥン(御殿)と呼ばれる阿応理屋恵ノロ殿内跡(あおりやえノロどぅんち)。阿応理屋恵ノロは国頭全体を統括した高位のノロ。

祠の中には、香炉と添えられた花が見られます。

屋敷跡は現在は畑になっています。




かつての馬場へ出る、行く先は公民館
集落内の最も広い通りは、かつての馬場です。農民は競馬をして馬を操る技術をみがき、楽しみました。


今泊仕様の自販機、グスクの桜と棒術のイラストが描かれている
今泊仕様の自販機を見つけました。今帰仁グスクの桜と、伝統芸の棒術がイラストになっています。
缶コーヒーの価格は100円でした。


校舎のような今泊公民館
学校の校舎のような今泊公民館。道をまたいで建てられているので、自動車が出てきます。参加者が見ているのは、樹齢推定300年といわれるコバテイシの老木。コンクリートの柱で補強しています。

今泊の年中行事は毎月のように行なわれた
今泊の年中行事は、ほぼ毎月おこなわれます。ノロや神人(かみんちゅ)たちは多忙だった?かもしれません。年中行事をおこなう場所のひとつが、下の写真の神ハサギで、4本の柱で軒の低い屋根を支えています。


今泊の神ハサギは2箇所ある
今泊には神ハサギが2カ所あります。旧親泊ムラと旧今帰仁ムラの祭祀がおこなわれたためです。
今泊という名前は、今帰仁ムラと親泊ムラの一文字づつを採って名づけられました。


今泊の神ハサギは2箇所ある、こちらが旧今帰仁ムラのハサギ
旧今帰仁ムラの神ハサギです。




文字のない自然石の石敢當は珍しい
自然石の石敢當(いしがんとう)で、たいへん珍しいもの。人の形にも見えます。


かつての宿道、行く先はエーガー(親川)
かつての宿道(しゅくみち、すくみち)は、今の国道のようなもの。最近、琉球石灰岩で舗装整備されました。
これから、今帰仁グスクへの登城道である、ハンタ道へと向かいます。


運天集落と古墓は、「桜の季節にガイドとめぐる今帰仁の史跡」のCコースです。ガイド約10人で歩いてみました。

写真でコースをご紹介します。

運天港から古宇利大橋をながめる
Cコースのスタート地点から見た古宇利大橋。


運天港から古墓群が山腹に見える。
山腹を削って造った墓群が見えます。


大北(うーにし)墓には第2監守時代の監守たちが葬られている。
大北(うーにし)墓には、第2監守時代の監守たちやアオリヤエが葬られています。別名按司墓。

元は、今帰仁グスクの麓(ふもと)のウツリタマイにあったものを、1761年に今帰仁王子(十世宣謨、せんも)が拝領墓として建造したものです。
岩をくり抜いて造ったりっぱな墓で、今帰仁村指定の文化財です。


大戦中に魚雷艇を格納した穴が今も残っている。
道の脇に穴が掘られています。中は塞がっていますが、大戦中に魚雷艇を格納した穴です。今でも何ヵ所か残っています。運天港には日本軍の魚雷艇の基地があったのです。


ウケメービラと呼ばれる坂。
ウケメービラと呼ばれる坂道です。薩摩軍が運天港に上陸した(1609年)とき、進軍を阻むために、粟の粥(かゆ)を煮たぎらせてこの坂に流したと伝えられています。ウケメーは粥のこと、ビラは坂道の意。

坂道を登って移動しますが、今は階段状に整備されています。



源為朝の上陸碑
為朝上陸碑の書は東郷平八郎による
源為朝の上陸碑です。書は東郷平八郎によるもの。下のほうには、国頭郡教育部会と刻まれています。

日琉同祖論とは、日本と琉球は同じ始祖から始まったと言う考えですが、為朝上陸碑の書の主から、軍国主義の臭いもしてきます。


百按司墓は大勢の按司の墓と言う意味。
百按司墓(ムムジャナハカ)とは、大勢の按司が葬られた墓の意味です。『中山世譜、ちゅうざんせいふ』に「監守貴族」と記述があるので、第一尚氏の監守貴族が葬られていると考えられています。
中には北山王の墓として拝む人たちもいるということです。

歴史文化センターには、第一墓所にあった漆塗りの木棺が修復され、展示されています。
今帰仁村指定の文化財です。


百按司墓の特徴ある姿
百按司墓の中にある厨子甕
百按司墓の特徴ある姿です(上)。中をのぞくと厨子甕が見えました(下)。


百按司墓にある大きな鍾乳石。
墓の上には大きな鍾乳石が見えます。


運天港展望台からのながめは絶景です。
展望台からのながめは絶景です。晴れの日には、与論島まで見ることができます。長い橋は古宇利大橋。


ティラガマは運天地区の拝所でもある
為朝の手形と伝えられている岩のくぼみ
ティラガマは自然にできた洞窟です。運天地域の拝所ともなっています。洞窟内には為朝の手形と伝えられる岩のくぼみがあります。


運天トンネル
運天トンネルは、大正13年(1924年)に竣工しました。急な坂道を登って往来していた人々にとって、恵みのトンネルでした。


運天の湧き水
かつては水田に引いた水が今も湧いています。


運天のアサギは軒が低く造られている
運天のアサギです。かつてはノロや神人(かみんちゅ)が祈願しました。

あけましておめでとうございます

謹賀新年

今年もよろしくお願いいたします。
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