平郎門の謎が解けた日

平郎門全景、一枚岩が重厚な造りを感じさせる

平郎門は今帰仁グスクの正門です。一枚岩を載せた重厚な造り、と表現されて人気のある門です。しかし、琉球政府時代の復元であり、復元の基になった資料などは残っていません。設計図はありますが、古老に聞き取り調査した内容を基にしたというだけで、いまひとつ決め手がありません。


あるとき、ガイドの岸本さんが作業した人と知り合い、その方から一枚岩の出所と、作業時の様子を聞くことができました。
下は岸本さんが写真入りで公表してくれた画像です。

平郎門の石の出所(1)
地図を見ると平郎門の石は、県道を少し下ったところから採取したことがわかります。(地図左側)

平郎門に使われた一枚岩は、米軍の四輪駆動車を使って運ばれました。その後の工事の様子は、平郎門前にある案内板で知ることができます。重機がなかったので、滑車を使って苦労の末、引き上げたようです。
こうして、平郎門の一枚岩の謎が解けました。従って、琉球のグスク時代には、一枚岩は乗っていなかったと考えていいでしょう。
そうすると、門の形はやぐら状の建造物が乗っていた、と言えそうです。

平郎門の工事、昭和37年、案内板より
平郎門前の案内板の写真。滑車を使って一枚岩を持ち上げているところ。



志慶真門(裏門)の想像図、運天肇氏による、ガイドブックより
やぐら状の建造物が乗っている裏門、志慶真門の想像図。運天肇氏による。今帰仁城跡ガイドブックより。


クバの御嶽の遥拝所、サカンケーという
   サカンケーと呼ばれる遥拝所。前方がクバの御嶽。


今帰仁グスクを見下ろすように、クバの御嶽(うたき)があります。標高約189mの山です。クバは和名はビロウでヤシの仲間です。
クバの木が、昔は繁茂していたことから、クバの御嶽と言うようです。

遥拝所は、山に登れない人でも皆と同様に、神々を拝することができる場所なのです。


今泊の人々がクバの御嶽を遥拝する
大勢の人々が遥拝している写真は、今帰仁グスクのお膝元の今泊集落の祭祀です。旧暦5月15日と9月15日におこなわれています。

遥拝所の香炉
 サカンケーとは別の遥拝所。この香炉はいつ置かれたのか定かではない。


一方、クバの御嶽は、琉球王国の重要な御嶽でした。クバの御嶽に涼傘(りゃんさん、ひがさ)が立つと、神が出現したとして、首里城に飛脚を走らせて知らせます。

首里城では、ノロをはじめ国王、家臣が装束を整え鼓を打ち歌を謡ったとされます。神権を重要視した琉球王国ならではの情景かもしれません。

涼傘とはどんなものか、以下の写真でご覧ください。
首里の古式行列で披露された、赤と黄の涼傘です。

以下のような伝承があるので、赤と黄の涼傘が再現されているのでしょう。
「昔、神の出現があるとき、黄涼傘がアフリヌハナ嶽(今帰仁村謝名)に立つと、赤涼傘がクボウヌ嶽(クバの御嶽)に立つ。」または、その逆のこともある。国頭のアフリ嶽に立つこともある。(簡略化して記述)

クバの御嶽に涼傘が見えることがあるでしょうか?これらの不思議な現象は、現代人には見えないのかもしれません。


赤御涼傘,
  首里の古式行列で赤の涼傘を持つ人。


黄御涼傘、首里古式行列で赤と黄のひがさ、りゃんさん
  首里の古式行列で黄の涼傘を持つ人。

涼傘の2枚の写真はTakuye network http://www.takuye.jp/ よりお借りしました。



ビロウ、クバはオキナワ語でクバの御嶽の由来となっている。
この写真がビロウ。沖縄語でクバ。クバの御嶽の由来となっている。
街路樹のワシントンヤシに似ているが、ビロウは葉先が切れて垂れ下がる特徴がある。

現在のクバの御嶽に、一本もクバがないのが実は不思議。


道路の下に城壁が 外郭を歩く(その6)

道路下の石積み1
写真やや中央と下側の二方向からの城壁が、道路で遮断されています。道路下に城壁が埋まっていそうです。


道路下の石積み2
道路下の城壁を実際に見ることができます。電柱のところに石積みが見えます(写真上)。


道路下の石積み3
道路を掘ったところです(写真上)。石積みが確認できます。


道路下の石積み4写真上の城壁が、道路下の石積みへとつながっていきます。三方向からの城壁が道路下でつながっているのです。


外郭西側の広い部分に、どのような建物があったのでしょうか?まだ、よくわかっていません。
中国製や日本製の陶磁器が出土しているので、今帰仁グスクを支える人々が住んでいたかもしれません。

広大な面積の外郭でどのような営みが行われていたのか、今後、発掘調査が進めば明らかになってくることでしょう。

現在、この道路は使われていないため、近い将来、道路下の石積みが復元される日も期待できそうです。


ウーニーは御舟 外郭を歩く(その5)

ウーニーは御舟、今帰仁グスク外郭(1)
写真手前の二つの土盛りが、レコーラウーニーと呼ばれる御舟です。かつては、舟こぎの動作をしてから竹を立てて祈願しました。これが、御舟漕ぎ(ウーニフジ)と呼ばれる伝統行事です。

おこなわれるのは、海神祭(うんじゃみ)という祭祀の初日。旧盆明けの亥の日をはさんで3日間おこなわれるのが海神祭です。


ウーニーは御舟、今帰仁グスク外郭(2)

ウーニーでの祈願、古写真、今帰仁グスク外郭
ウーニーでの祈願古写真。(今泊誌より)


ウーニー案内板の写真、今帰仁グスク外郭
ウーニーでの祈願古写真。(案内板より)


ウーニーで、現ノロと新ノロが共に祈願、今帰仁グスク外郭
2016年の海神祭でおこなわれた、今帰仁ノロによる祈願。白い神衣装が現在のノロで、後継の新ノロへの引継ぎがおこなわれた記念すべき写真。(今帰仁村歴史文化センターFacebookより)

外郭とは、大隅の城壁の外側を指す
外郭とは、大隅の城壁の外側を指します。写真上の、右手奥にあるのが大隅の城壁。

今帰仁グスクを訪れると、まず外郭と呼ばれる広いところに、はいります。外郭東側です。
蛇行した城壁は低いですが、ちゃんと防壁の役目を果たしていました。昔は地面が現在より、およそ1m下にあったらしいので、敵が、容易に乗り越えることはなかったわけです。


外郭東側、蛇行する城壁
                     蛇行する外郭の城壁(写真上)、整備後。




蛇行する外郭城壁、整備中
蛇行する外郭城壁、整備中(写真上)。城壁はかなり残っていたことがわかります。



外郭には、西側があります。こちらへ入ることは、ほとんどありません。
写真下は、復元整備中の外郭西側の城壁です。西側は、元の城壁がほとんど残っていないのがわかります。根石の上に新たな石を乗せて、城壁が復元されました。(写真下)


外郭西側城壁の復元
      外郭西側の城壁、復元整備中の写真。


外郭西側の城壁、復元中2
  外郭西側の城壁、復元整備中の写真。後方にクバの御嶽が見える。


今帰仁グスクの模型、外郭はかなりの面積を占める
上の写真は、100分の1模型で見る外郭の部分で、かなり広い面積です。便宜上、東側と西側に分けて呼んでいます。

今帰仁グスク外郭の監守住居跡1
『薩摩軍の侵攻によって焼き討ちに遭った今帰仁グスク(1609年)。
当時、今帰仁グスクの城主であった監守(かんしゅ)は、城外へ出て、現在の今泊(いまどまり)集落で生活していた。』

この情報が今までの定説でした。

ところが、発掘調査の結果、発掘された陶磁器などからこの住居跡は1600年後半のもの、と判明。
監守は主郭(本丸)を下りたけれど、城外に出たのではなく、外郭にとどまったことになります。
これまでの定説をくつがえしたこの発掘調査結果は、地元新聞に大きく掲載され、注目されました。

琉球新報ウェブ版の記事: 



今帰仁グスク外郭の監守住居跡2
今帰仁グスク外郭にある高官の住居跡(左下)。右手の城壁が大隅の城壁。


今帰仁グスク外郭の監守住居跡3
整備中の監守の住居跡。発掘された基壇の一部を基に復元。


監守とは
今帰仁監守(北山監守)とは、今帰仁グスクに常駐して琉球北部を監視する役職。中山王は北山王(今帰仁)を倒したが、中山(首里城)に対し反乱が起こるのを恐れ、監守職を定めて今帰仁グスクに派遣した。

薩摩軍による焼き討ちの後も、今帰仁グスクに留まったとすれば、当時の監守は六世あるいは七世と思われる。今帰仁村文化財ガイドブックvol.1によれば、六世は伊野波在番勤務(伊野波は現在の本部町)。七世は運天在番勤務(運天港に番所があった)になっている。


監守のプロフィール

  • 今帰仁監守五世kansyu02_R255.jpg
  • 今帰仁監守六世kansyu05_R255.jpg
  • 今帰仁監守七世kansyu03_R255.jpg


  • 今帰仁監守一世kansyu01_R255.jpg
  • 一世の尚韶威(しょう しょうい):第2監守の一世(尚巴志の系統を第1監守、尚円の系統を第2監守という)
  • 五世の向克祉(しょう かつし):薩摩軍の焼き討ちの翌日死亡
  • 六世の向縄祖(しょう じょうそ):伊野波(現在の本部町)在番勤務
  • 七世の向従憲(しょう じゅうけん):1665年首里に帰り居住する、翌年、運天在番勤務となる
漢字表記は、一世のみ、二世以降はと表記する決まりであった。


イラストは運天肇氏 http://www.untenhajime.net/ (今帰仁村文化財ガイドブックvol.1よりお借りしました)


監守についての文献による詳しい解説:琉球史研究リンク集今帰仁コーナー 

今帰仁グスクの巨大な炉跡、ロープが張られている
今帰仁グスクの外郭に、フィドゥンチ(古宇利島の火の神のほこら)と並んで目に付くのが、ロープで囲まれた部分。外郭の調査で発掘された巨大な炉跡で、沖縄県内でも前例がないそうです。

炉跡が発掘された後、陶板に原寸大の写真を焼きつけてタイル状にし、展示されています(写真上)。


写真下が発掘当時の状態。土が熱で焦げて赤くなっています。柱を建てた跡があり、屋根があったのでしょう。

今帰仁グスクの巨大な炉跡、発掘当時の状態
今帰仁グスクの巨大な炉跡、説明版
上の写真の説明板には、炉跡を伴う掘立柱建物跡、とあります。14世紀後半、調理に使われたようです。

14世紀後半は、北山王が三代にわたり、明国へ盛んに朝貢した時代。
北山王は、怕尼芝(はにし)、珉(みん)、攀安知(はんあんち)の三代。

同時に、今帰仁グスク造営が最も盛んだった時期と考えられます。大勢の工事人たちが立ち働いていたはずで、人々の食をまかなったのが、この炉だったのでは。

今帰仁グスクの巨大な炉跡

フィドゥンチ遠景

写真上の祠(ほこら)はフィドゥンチと呼ばれます。火の神を祀った祠です。
「フィ」とは、古宇利島のこと。漢字では、古宇利殿内と書きます。殿内はトノウチではなく、ドゥンチと読みます。

古宇利島は、今帰仁村の唯一の離島。古宇利島の人々が旧暦8月に遥拝(遠くから拝む)するようです。それで、この祠は古宇利島の方向を向いているのです。

古宇利島は、今は観光地としてにぎわっています。古宇利島へ行く機会があれば、遥拝して安全祈願するのもいいかもしれません。

この祠が新しいのは、2010年に古写真を基に復元されたからです。赤瓦が目を引きます。近寄れば、石組みの壁と前庭に敷かれたサンゴがきれいです。中を覗くと、霊石が3組と香炉が3基置かれています。


フィドゥンチ拝み
         フィドゥンチを拝みに訪れた家族


フィドゥンチ
         赤瓦葺きのフィドゥンチ


フィドゥンチ古写真
         フィドゥンチの案内板より


旧フィドゥンチ
移築整備する以前のフィドゥンチ。門中(親族)が拝むようす。外郭整備中でブルーシートが敷かれている。

真夏の今帰仁グスク

5975.jpg
夏の今帰仁グスクを写真でご紹介します。

写真上:gusuku photo galleryより 2010年 撮影武田裕司氏
写真下:会誌10周年記念号より 2012年 撮影西谷

夏のグスク二人歩く

鎧の重さは20kg以上 旧道で敵兵を阻止!

小札、鎧の一部分
           出土した鉄製の小札(こざね)


小札(こざね)という鎧(よろい)の一部分が、今帰仁グスクから出土しています。鉄製で、ひもを通す穴が開いています。この小札を幾重にもつないで、鎧ができます。矢や刀を防ぎ、身を守る武装ですが、日本の鎧を調べてみると、その重さは20kg以上にもなります。

琉球のグスク時代は戦国時代です。日本式の鎧が使われていたことが、出土した小札(こざね)から推測できます。


グスク内の旧道 敵兵の侵入を阻むようにできている
    旧道の凸凹が上りにくく、岩盤が狭い空間を作っている


そこで、今帰仁グスクの旧道を見ると、敵兵の侵入を阻むようにできていることが、よくわかります。実際に歩いてみると、足下を見ながらでないと歩けません。鎧を身につければなおさら歩きにくいので、迎え撃つ側が有利です。


旧道に咲くテッポウユリ
       テッポウユリの咲く旧道 5月頃


旧道は、まっすぐな参道の途中から、右側にあります。四季折々の花も見られますので、上ってみてください。

戦国の時代が終わった後も、この旧道が使われていたと思われます。便利に直さなかったのでしょうか?今帰仁グスクの不思議の一つです。もしかすると、薩摩軍の侵入を予見していたのかもしれませんね。


出土した鉄製の小札(こざね)の画像は当ホームページの「今帰仁城跡出土品美術館」http://nakijingusuku.com/museum/2012/02/post-11.html  より
前の10件 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11

過去の記事