ウーニーは御舟 外郭を歩く(その5)

ウーニーは御舟、今帰仁グスク外郭(1)
写真手前の二つの土盛りが、レコーラウーニーと呼ばれる御舟です。かつては、舟こぎの動作をしてから竹を立てて祈願しました。これが、御舟漕ぎ(ウーニフジ)と呼ばれる伝統行事です。

おこなわれるのは、海神祭(うんじゃみ)という祭祀の初日。旧盆明けの亥の日をはさんで3日間おこなわれるのが海神祭です。


ウーニーは御舟、今帰仁グスク外郭(2)

ウーニーでの祈願、古写真、今帰仁グスク外郭
ウーニーでの祈願古写真。(今泊誌より)


ウーニー案内板の写真、今帰仁グスク外郭
ウーニーでの祈願古写真。(案内板より)


ウーニーで、現ノロと新ノロが共に祈願、今帰仁グスク外郭
2016年の海神祭でおこなわれた、今帰仁ノロによる祈願。白い神衣装が現在のノロで、後継の新ノロへの引継ぎがおこなわれた記念すべき写真。(今帰仁村歴史文化センターFacebookより)

外郭とは、大隅の城壁の外側を指す
外郭とは、大隅の城壁の外側を指します。写真上の、右手奥にあるのが大隅の城壁。

今帰仁グスクを訪れると、まず外郭と呼ばれる広いところに、はいります。外郭東側です。
蛇行した城壁は低いですが、ちゃんと防壁の役目を果たしていました。昔は地面が現在より、およそ1m下にあったらしいので、敵が、容易に乗り越えることはなかったわけです。


外郭東側、蛇行する城壁
                     蛇行する外郭の城壁(写真上)、整備後。




蛇行する外郭城壁、整備中
蛇行する外郭城壁、整備中(写真上)。城壁はかなり残っていたことがわかります。



外郭には、西側があります。こちらへ入ることは、ほとんどありません。
写真下は、復元整備中の外郭西側の城壁です。西側は、元の城壁がほとんど残っていないのがわかります。根石の上に新たな石を乗せて、城壁が復元されました。(写真下)


外郭西側城壁の復元
      外郭西側の城壁、復元整備中の写真。


外郭西側の城壁、復元中2
  外郭西側の城壁、復元整備中の写真。後方にクバの御嶽が見える。


今帰仁グスクの模型、外郭はかなりの面積を占める
上の写真は、100分の1模型で見る外郭の部分で、かなり広い面積です。便宜上、東側と西側に分けて呼んでいます。

今帰仁グスク外郭の監守住居跡1
『薩摩軍の侵攻によって焼き討ちに遭った今帰仁グスク(1609年)。
当時、今帰仁グスクの城主であった監守(かんしゅ)は、城外へ出て、現在の今泊(いまどまり)集落で生活していた。』

この情報が今までの定説でした。

ところが、発掘調査の結果、発掘された陶磁器などからこの住居跡は1600年後半のもの、と判明。
監守は主郭(本丸)を下りたけれど、城外に出たのではなく、外郭にとどまったことになります。
これまでの定説をくつがえしたこの発掘調査結果は、地元新聞に大きく掲載され、注目されました。

琉球新報ウェブ版の記事: 



今帰仁グスク外郭の監守住居跡2
今帰仁グスク外郭にある高官の住居跡(左下)。右手の城壁が大隅の城壁。


今帰仁グスク外郭の監守住居跡3
整備中の監守の住居跡。発掘された基壇の一部を基に復元。


監守とは
今帰仁監守(北山監守)とは、今帰仁グスクに常駐して琉球北部を監視する役職。中山王は北山王(今帰仁)を倒したが、中山(首里城)に対し反乱が起こるのを恐れ、監守職を定めて今帰仁グスクに派遣した。

薩摩軍による焼き討ちの後も、今帰仁グスクに留まったとすれば、当時の監守は六世あるいは七世と思われる。今帰仁村文化財ガイドブックvol.1によれば、六世は伊野波在番勤務(伊野波は現在の本部町)。七世は運天在番勤務(運天港に番所があった)になっている。


監守のプロフィール

  • 今帰仁監守五世kansyu02_R255.jpg
  • 今帰仁監守六世kansyu05_R255.jpg
  • 今帰仁監守七世kansyu03_R255.jpg


  • 今帰仁監守一世kansyu01_R255.jpg
  • 一世の尚韶威(しょう しょうい):第2監守の一世(尚巴志の系統を第1監守、尚円の系統を第2監守という)
  • 五世の向克祉(しょう かつし):薩摩軍の焼き討ちの翌日死亡
  • 六世の向縄祖(しょう じょうそ):伊野波(現在の本部町)在番勤務
  • 七世の向従憲(しょう じゅうけん):1665年首里に帰り居住する、翌年、運天在番勤務となる
漢字表記は、一世のみ、二世以降はと表記する決まりであった。


イラストは運天肇氏 http://www.untenhajime.net/ (今帰仁村文化財ガイドブックvol.1よりお借りしました)


監守についての文献による詳しい解説:琉球史研究リンク集今帰仁コーナー 

今帰仁グスクの巨大な炉跡、ロープが張られている
今帰仁グスクの外郭に、フィドゥンチ(古宇利島の火の神のほこら)と並んで目に付くのが、ロープで囲まれた部分。外郭の調査で発掘された巨大な炉跡で、沖縄県内でも前例がないそうです。

炉跡が発掘された後、陶板に原寸大の写真を焼きつけてタイル状にし、展示されています(写真上)。


写真下が発掘当時の状態。土が熱で焦げて赤くなっています。柱を建てた跡があり、屋根があったのでしょう。

今帰仁グスクの巨大な炉跡、発掘当時の状態
今帰仁グスクの巨大な炉跡、説明版
上の写真の説明板には、炉跡を伴う掘立柱建物跡、とあります。14世紀後半、調理に使われたようです。

14世紀後半は、北山王が三代にわたり、明国へ盛んに朝貢した時代。
北山王は、怕尼芝(はにし)、珉(みん)、攀安知(はんあんち)の三代。

同時に、今帰仁グスク造営が最も盛んだった時期と考えられます。大勢の工事人たちが立ち働いていたはずで、人々の食をまかなったのが、この炉だったのでは。

今帰仁グスクの巨大な炉跡

フィドゥンチ遠景

写真上の祠(ほこら)はフィドゥンチと呼ばれます。火の神を祀った祠です。
「フィ」とは、古宇利島のこと。漢字では、古宇利殿内と書きます。殿内はトノウチではなく、ドゥンチと読みます。

古宇利島は、今帰仁村の唯一の離島。古宇利島の人々が旧暦8月に遥拝(遠くから拝む)するようです。それで、この祠は古宇利島の方向を向いているのです。

古宇利島は、今は観光地としてにぎわっています。古宇利島へ行く機会があれば、遥拝して安全祈願するのもいいかもしれません。

この祠が新しいのは、2010年に古写真を基に復元されたからです。赤瓦が目を引きます。近寄れば、石組みの壁と前庭に敷かれたサンゴがきれいです。中を覗くと、霊石が3組と香炉が3基置かれています。


フィドゥンチ拝み
         フィドゥンチを拝みに訪れた家族


フィドゥンチ
         赤瓦葺きのフィドゥンチ


フィドゥンチ古写真
         フィドゥンチの案内板より


旧フィドゥンチ
移築整備する以前のフィドゥンチ。門中(親族)が拝むようす。外郭整備中でブルーシートが敷かれている。

真夏の今帰仁グスク

5975.jpg
夏の今帰仁グスクを写真でご紹介します。

写真上:gusuku photo galleryより 2010年 撮影武田裕司氏
写真下:会誌10周年記念号より 2012年 撮影西谷

夏のグスク二人歩く

鎧の重さは20kg以上 旧道で敵兵を阻止!

小札、鎧の一部分
           出土した鉄製の小札(こざね)


小札(こざね)という鎧(よろい)の一部分が、今帰仁グスクから出土しています。鉄製で、ひもを通す穴が開いています。この小札を幾重にもつないで、鎧ができます。矢や刀を防ぎ、身を守る武装ですが、日本の鎧を調べてみると、その重さは20kg以上にもなります。

琉球のグスク時代は戦国時代です。日本式の鎧が使われていたことが、出土した小札(こざね)から推測できます。


グスク内の旧道 敵兵の侵入を阻むようにできている
    旧道の凸凹が上りにくく、岩盤が狭い空間を作っている


そこで、今帰仁グスクの旧道を見ると、敵兵の侵入を阻むようにできていることが、よくわかります。実際に歩いてみると、足下を見ながらでないと歩けません。鎧を身につければなおさら歩きにくいので、迎え撃つ側が有利です。


旧道に咲くテッポウユリ
       テッポウユリの咲く旧道 5月頃


旧道は、まっすぐな参道の途中から、右側にあります。四季折々の花も見られますので、上ってみてください。

戦国の時代が終わった後も、この旧道が使われていたと思われます。便利に直さなかったのでしょうか?今帰仁グスクの不思議の一つです。もしかすると、薩摩軍の侵入を予見していたのかもしれませんね。


出土した鉄製の小札(こざね)の画像は当ホームページの「今帰仁城跡出土品美術館」http://nakijingusuku.com/museum/2012/02/post-11.html  より
ひおどしの鎧_レプリカ            画像(1)


画像(1)は中山王に敗れた北山王 攀安知(はんあんち)が、武装したとされる「火威の鎧」(ひおどしのよろい)のレプリカ。「北山滅亡600年」の講演会場にて撮影。

当時、琉球では日本式の鎧を身に着けていたことがわかっている。今帰仁グスクから、小札(こざね)という鎧の部品が出土している。


書物に記された攀安知の姿は次のとおり。

「赤地ノ錦ノ直垂(ひたたれ)ニ、火威(ひおどし)ノ鎧(よろい)ヲ着、龍頭ノ甲(かぶと)の緒ヲシメ、千代金丸トテ、重代相伝ノ太刀ヲハキ、三尺五寸の小長刀(なぎなた)ヲ腋ニ挟ミ」

直垂とは、鎧の下に着る衣服。火威とは甲冑の小札(こざね・鉄や皮製の板)をつなぐ赤色のヒモのこと。


『中山世鑑』という首里王府編さんの書物には、攀安知の姿が、このように詳しく描かれている。この記述を基に上里隆史氏がイラスト化した。画像(2)

記述通りなら全身真赤で長刀持ちになるが、配色のバランスを考え、また、千代金丸を持たせて、イラストのようになっている。甲(かぶと)の龍の頭が、画像(1)のレプリカと比べると豪華な感じ。イラストは和々さん。

攀安知の姿、イラストは和々さん。
               画像(2)

今帰仁グスクを学ぶ会 会誌 10周年記念特別号に掲載された研究論文「北山王攀安知のイラスト復元の試み---『琉球戦国列伝』を通じて---」を基にこの記事を掲載しました。

「北山滅亡600年」特別企画 講演と対談

北山滅亡600年記念講演

  日時=514 () 14時から16

場所=今帰仁村コミュニティーセンターホール
◆講演「北山王攀安知のビジュアル復元の試み」(講師:上里隆史氏)
◆対談「北山滅亡とアジアの海の世界」(上里隆史氏・屋良健一郎氏 司会:宮城弘樹氏)

※攀安知の鎧「火威しの鎧」レプリカ公開あり

入場無料

主催=今帰仁グスクを学ぶ会
問い合わせ=080-6490-8250 (ヤマノウチ)


琉球のノロと現代の神人

今帰仁グスク正門で一礼する今帰仁ノロ
上の写真は、今帰仁グスク正門で一礼する今帰仁ノロ(2007年撮影)


琉球時代のノロを紹介すると、ほとんどのお客様は「巫女(みこ)?」と考えます。ノロは女性ですから、巫女と考えるのはもっともなことです。
ノロは琉球王国の制度でした。国の制度ですから、ノロは今で言えば国家公務員。ノロに任命されるときには、首里王府から辞令書が発行されます。辞令書には琉球国王の印が押してあります。(辞令書は今帰仁に残っていないのが残念ですが)

ノロと共に祭祀をつかさどるのが神人(かみんちゅ)と呼ばれる女性たちです。ノロも神人も、高齢化にともない、現在沖縄ではほとんど存在しません。
ところが、インターネットで「神人」「かみんちゅ」と検索すると、たくさん出てきます。これらの自称神人のサイトは、ユタです。ユタは琉球王国時代から存在したらしく、いわば、私設の占い師。霊感によって開業し、霊感で判じ事や祈願をおこないます。

首里王府が政治の側面としてノロ制度を定め、公務員としてノロを任命したのに対し、ユタは自分の霊感を基に自営業としてユタを始める。ここが大きな違いです。小説では、霊感豊かなノロが登場し、霊感によって祝詞(ミセゼル)を唱えますが、あくまでお話の設定です。ノロの任務は、年中祭祀を滞りなくきちんと行うことが大切。国の宗教なのですから、儀礼が大事です。

「すいてんがなし」とは首里城の琉球国王様を意味する言葉です。琉球国の祭祀をつかさどる上級ノロの祈願は、この「すいてんがなし」から始まることが記録されています。首里の王様を称え、琉球王国が永く存続することが最重要の祈願です。これを見ても、ノロの祈願は公務であることがわかります。

城内上の御嶽で祈願する今帰仁ノロ
上の写真は、城内上の御嶽で祈願する今帰仁ノロ(2007年撮影)


ノロと神人たち、今帰仁村歴史文化センターの案内版より
上の写真は、祈願するノロと神人たち。参加者の服装から、昭和初期の頃の画像か映像を元に描画したと思われる。(今帰仁村歴史文化センターの案内板より)

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