ひおどしの鎧_レプリカ            画像(1)


画像(1)は中山王に敗れた北山王 攀安知(はんあんち)が、武装したとされる「火威の鎧」(ひおどしのよろい)のレプリカ。「北山滅亡600年」の講演会場にて撮影。

当時、琉球では日本式の鎧を身に着けていたことがわかっている。今帰仁グスクから、小札(こざね)という鎧の部品が出土している。


書物に記された攀安知の姿は次のとおり。

「赤地ノ錦ノ直垂(ひたたれ)ニ、火威(ひおどし)ノ鎧(よろい)ヲ着、龍頭ノ甲(かぶと)の緒ヲシメ、千代金丸トテ、重代相伝ノ太刀ヲハキ、三尺五寸の小長刀(なぎなた)ヲ腋ニ挟ミ」

直垂とは、鎧の下に着る衣服。火威とは甲冑の小札(こざね・鉄や皮製の板)をつなぐ赤色のヒモのこと。


『中山世鑑』という首里王府編さんの書物には、攀安知の姿が、このように詳しく描かれている。この記述を基に上里隆史氏がイラスト化した。画像(2)

記述通りなら全身真赤で長刀持ちになるが、配色のバランスを考え、また、千代金丸を持たせて、イラストのようになっている。甲(かぶと)の龍の頭が、画像(1)のレプリカと比べると豪華な感じ。イラストは和々さん。

攀安知の姿、イラストは和々さん。
               画像(2)

今帰仁グスクを学ぶ会 会誌 10周年記念特別号に掲載された研究論文「北山王攀安知のイラスト復元の試み---『琉球戦国列伝』を通じて---」を基にこの記事を掲載しました。

「北山滅亡600年」特別企画 講演と対談

北山滅亡600年記念講演

  日時=514 () 14時から16

場所=今帰仁村コミュニティーセンターホール
◆講演「北山王攀安知のビジュアル復元の試み」(講師:上里隆史氏)
◆対談「北山滅亡とアジアの海の世界」(上里隆史氏・屋良健一郎氏 司会:宮城弘樹氏)

※攀安知の鎧「火威しの鎧」レプリカ公開あり

入場無料

主催=今帰仁グスクを学ぶ会
問い合わせ=080-6490-8250 (ヤマノウチ)


琉球のノロと現代の神人

今帰仁グスク正門で一礼する今帰仁ノロ
上の写真は、今帰仁グスク正門で一礼する今帰仁ノロ(2007年撮影)


琉球時代のノロを紹介すると、ほとんどのお客様は「巫女(みこ)?」と考えます。ノロは女性ですから、巫女と考えるのはもっともなことです。
ノロは琉球王国の制度でした。国の制度ですから、ノロは今で言えば国家公務員。ノロに任命されるときには、首里王府から辞令書が発行されます。辞令書には琉球国王の印が押してあります。(辞令書は今帰仁に残っていないのが残念ですが)

ノロと共に祭祀をつかさどるのが神人(かみんちゅ)と呼ばれる女性たちです。ノロも神人も、高齢化にともない、現在沖縄ではほとんど存在しません。
ところが、インターネットで「神人」「かみんちゅ」と検索すると、たくさん出てきます。これらの自称神人のサイトは、ユタです。ユタは琉球王国時代から存在したらしく、いわば、私設の占い師。霊感によって開業し、霊感で判じ事や祈願をおこないます。

首里王府が政治の側面としてノロ制度を定め、公務員としてノロを任命したのに対し、ユタは自分の霊感を基に自営業としてユタを始める。ここが大きな違いです。小説では、霊感豊かなノロが登場し、霊感によって祝詞(ミセゼル)を唱えますが、あくまでお話の設定です。ノロの任務は、年中祭祀を滞りなくきちんと行うことが大切。国の宗教なのですから、儀礼が大事です。

「すいてんがなし」とは首里城の琉球国王様を意味する言葉です。琉球国の祭祀をつかさどる上級ノロの祈願は、この「すいてんがなし」から始まることが記録されています。首里の王様を称え、琉球王国が永く存続することが最重要の祈願です。これを見ても、ノロの祈願は公務であることがわかります。

城内上の御嶽で祈願する今帰仁ノロ
上の写真は、城内上の御嶽で祈願する今帰仁ノロ(2007年撮影)


ノロと神人たち、今帰仁村歴史文化センターの案内版より
上の写真は、祈願するノロと神人たち。参加者の服装から、昭和初期の頃の画像か映像を元に描画したと思われる。(今帰仁村歴史文化センターの案内板より)

ウマの足形?という名の花です

ウマノアシガタ
今帰仁グスク内外に写真のような花が咲いています。ウマノアシガタ(馬の足形)と呼ばれるのですが、花の姿と名前がどうしても一致しません。

今帰仁城跡周辺の自然」によると、葉の形が馬の蹄(ひづめ)に似ているとか、鳥の足形の書き間違え、などの説が紹介されていますが、いづれの説も納得できそうもありません。

花がきらきら光っているのは、水滴ではなく、もともとの花の色艶で造花のように見えます。

近年、その数が減りつつあるということです。キンポウゲ科の植物なので、毒成分が含まれている可能性がありますので、手に取らないほうが安全です。

咲いている場所は、第2駐車場付近とグスク内の旧道付近にあります。

美しいシルバマは尻浜!?

今泊のシルバマは尻浜の意味だった
上の写真は、2016年1月下旬におこなわれた桜の季節散策ツアーの参加者の皆様。



今泊散策コースでめぐるシルバマ。白い砂浜、海の向こうには、伊江島や伊是名島が望める絶景。ここがシルバマです。

砂浜が白いからシルバマ、ではありません。集落の後ろにあるからシリバマ(尻浜)、それがなまってシルバマなのです。

(この説は今泊在住のガイド上間辰也さんによる)


今泊のシルバマ、白い砂浜が美しい
今泊集落のシルバマ。伊江島が見える。


今泊のシルバマ
シルバマの正面には、第二尚氏のはじめである尚円王の出身地、伊是名島が見える。

運天港にある源為朝上陸碑をガイドがご案内

「桜の季節にガイドとめぐる今帰仁の史跡」ツアーのひとコマ。源為朝上陸碑をご紹介します。上の写真は、ベテランガイドの説明を熱心に聴く参加者の皆様です。


源為朝上陸碑、書は東郷平八郎、国頭郡教育部会発起
「源為朝公上陸之趾」と刻まれた書は東郷平八郎の筆によるもの。
台座には国頭郡教育部会発起と刻まれています。

建立は大正11年。東郷平八郎と言えば、日本の幕末から明治時代の薩摩藩士で海軍軍人。国頭郡教育部会はこのころ、愛国心の育成を目的とした郷土教育をおこなっていた。

近代日本の皇民化教育のために、為朝が利用されたようです。しかし、それ以前に琉球の正史「中山世鑑」(1650年)に記録されているのです。

為朝が琉球北部の運天港に流れ着き、南部の有力者である大里按司の妹と結婚し、「舜天」という琉球王統の始祖が生まれた、というのです。

近代歴史学の研究によれば、為朝上陸は伝説であり、琉球王国(中山)が権威付けのために作為的に作ったもので事実ではないという結論です。

それにしても、この碑の石材は難破した外国船のバラスト(船の重り)を再利用したもので、歴史的遺跡の多く残された運天港の景色とともに、一度は見ておきたいものです。

参考文献:研究論文「源為朝来琉譚と発掘された沖縄」宮城弘樹氏(今帰仁グスクに掲載当時今帰仁村教育委員会、現在沖縄国際大学講師)今帰仁グスクを学ぶ会会誌より

「桜の季節にガイドとめぐる今帰仁の史跡」ツアーは今年も無事に終わりました。
ツアーの一コマをご紹介します。

ハンタ道と周辺史跡(Aコース)は、琉球時代の登城道を今帰仁グスクまで上ります。当時はふつうの道だったわけですが、現代人にとっては、トレッキングコース。ちょっとした山道です。とは言っても、子供でも上れる道ですからご安心を。

ハンタ道と周辺史跡Aコース2016年1月
出発前に100分の一模型で、グスクとかつて存在したムラなどをご紹介します。今帰仁グスクには3つのムラが連なっており、城下町として栄えたと思われます。


ハンタ道と周辺史跡Aコース2016年1月(2)
トレッキングコースなので、まずは体をほぐします。


ハンタ道と周辺史跡Aコース2016年1月(3)
ミームングスクとよばれる物見台。グスクからは見えない道のようすなどを、いち早く見て取ることができる物見台です。志慶真城郭へ合図を送ることができる位置にあります。


ハンタ道と周辺史跡Aコース2016年1月(4)
今帰仁グスク内をまわって、見学終了。実際に歩いてみると、登城道との関連がよくわかります。


ハンタ道と周辺遺跡Aコース
散策終了後の記念撮影。

お墓めぐり?なんて言わないでください

天然の良港とよばれた運天港と大北(うーにし)墓のご紹介です。

天然の良港とよばれる運天港
昔の運天港付近からのながめ。今では古宇利島へかかる古宇利大橋が見えます。ご紹介する大北(うーにし)墓はこの近くにあります。


大北(うーにし)墓は今帰仁監守の墓
大北(うーにし)墓は自然の岩をくり抜いた大きな墓。


大北墓の碑文
大北墓の碑文。葬られている人々が記録されている。



お墓めぐり?なんて言わないでください。このお墓は琉球の歴史が詰まっている場所なのです。

天然の良港とよばれた運天港に、大北(うーにし)墓があります。写真中をご覧いただくと、大きな岩をくり抜いて、みごとな墓が造られています。ここに北山監守(第二監守)が葬られています。監守とは役職名です。

今帰仁グスクの城主である北山王が倒されたあと、北山監守が、琉球の都となった首里から派遣され、今帰仁グスクを管理することになりました。監守派遣の理由が面白いのですが、「北山の地(琉球北部)は、都から遠くて険しく、住む人が勇猛だから、首里に反抗するかもしれない」というものです。

たしかに当時としては、琉球の中心である首里から北山の地は、船で往来するわけですから、遠かったに違いありません。今帰仁グスクは険しく見える山の上に建てられています。しかし、人が勇猛であるというのは、かなり悪口に聞こえます。滅ぼされた北山王は武道の達人だったが、人をひととも思わない人物だった。と伝えられているので、まったくの作り事ではないようですが、、。

今帰仁グスクに住んでいた監守は7世まで。北山監守が管理したおかげで、北山は王都首里に反抗することなく、統一された後の琉球王国は、安泰でありました。監守は首里王府におおきな貢献をしたわけです。それで、立派なお墓が造られ、いまでも伝統行事「今帰仁上り」には、おおぜいの人びとが、この大北(うーにし)墓に詣でるのです。


運天の集落と古墓めぐりは、「ガイドとめぐる今帰仁の史跡」のCコースに指定されています。

今帰仁監守3世は 寂しく一人今泊に眠る

開かん墓、監守3世が今泊に眠る

開かん墓、監守3世が今泊に眠る(2)
上の墓の写真は入口が閉じられていて、開かん墓とよばれます。

開かん墓とは、開かない墓と言う意味です。この墓は閉じられていて、開けることができません。ふつう、墓は入口があり、新しく亡くなった人の骨を入れることができますが、この墓は閉じられているので、もはや誰も入れないし、取り出すこともできません。

いわくのありそうなこの墓は、しかし、位の高い身分の人が葬られています。今帰仁監守三世、和賢(わけん)の墓です。正確には津屋口(つやぐち)墓といいます。

今帰仁監守(なきじんかんしゅ)とは、首里王府から派遣され、北山(ほくざん=琉球の北部地域)を治める重要な役職です。尚氏を名乗っているので、王家の一員で位は高いです。

和賢は病気ではなかったかと言われたりしますが、真相は不明。ちょっと悲しいような気がしますね。

監守1世から5世800.jpg
(監守のイラストは運天肇氏。今帰仁村文化財ガイドブック今帰仁城跡より転載させて頂きました。)


和賢のプロフィール:
監守三世 向和賢(しょう わけん)
の字を使ってしょうと読む、の字は一世のみが使用できる。
父の跡を継いで今帰仁間切総地頭職となるが、35歳で若くして亡くなる。監守一族は今帰仁グスク近くの大北(うーにし)墓に葬られるが、例外として津屋口墓に葬られている。

なお、一世尚韶威(しょうしょうい)は首里の玉陵(たまうどぅん)に葬られている。
5世克祉は薩摩入りの年に28歳の若さで亡くなっている。薩摩軍による焼き討ち事件の影響と考えられ、悲劇の監守と言えます。


開かん墓に咲いていた白いスミレ
開かん墓に咲いていた白スミレ。きっと今も咲いているでしょう。


津屋口墓(開かん墓)は、Bコース今泊集落の散策でめぐります。

今泊集落の地図、きれいに区画されている
今泊集落はグスク時代の城下町として、今帰仁グスク直下にありました。グスクを支えるための、城壁の石積み労役や水と食料の供給などを日常行うことによって、グスクの城主から守られ、見返りをうけて大いに栄えたと想像できます。

ところが、薩摩軍の侵略によって今帰仁グスクが廃城になると、集落ごと現在の海沿いの場所に下りてきます。集落移動という大変めずらしい事態が起こったのです。仕える城主がいなければ、便利な海沿いへ下りて、生計を立てなければなりません。

地図をご覧いただくと、実にきれいな格子状の道が通っています。風水の考えに基づいてムラ作りがなされたとされています。交差点には、石敢當(いしがんとう)とよばれる魔よけが立っています。

今泊集落の交差点、四角に区画されている
上の写真は、石敢當の代わりに子どもに注意の標識が立っているのが今風で面白い。
下の写真は、自然石の石敢當で大変めずらしいもの。

自然石の石敢當、今泊集落内
今泊の名前は、今帰仁ムラの「今」と親泊ムラの「泊」を組み合わせたもの。グスク直下にあった二つのムラが現在の今泊集落になっています。

今泊集落の散策は、ガイドとめぐる今帰仁の史跡Bコースに指定されています。

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