運天港にある源為朝上陸碑をガイドがご案内

「桜の季節にガイドとめぐる今帰仁の史跡」ツアーのひとコマ。源為朝上陸碑をご紹介します。上の写真は、ベテランガイドの説明を熱心に聴く参加者の皆様です。


源為朝上陸碑、書は東郷平八郎、国頭郡教育部会発起
「源為朝公上陸之趾」と刻まれた書は東郷平八郎の筆によるもの。
台座には国頭郡教育部会発起と刻まれています。

建立は大正11年。東郷平八郎と言えば、日本の幕末から明治時代の薩摩藩士で海軍軍人。国頭郡教育部会はこのころ、愛国心の育成を目的とした郷土教育をおこなっていた。

近代日本の皇民化教育のために、為朝が利用されたようです。しかし、それ以前に琉球の正史「中山世鑑」(1650年)に記録されているのです。

為朝が琉球北部の運天港に流れ着き、南部の有力者である大里按司の妹と結婚し、「舜天」という琉球王統の始祖が生まれた、というのです。

近代歴史学の研究によれば、為朝上陸は伝説であり、琉球王国(中山)が権威付けのために作為的に作ったもので事実ではないという結論です。

それにしても、この碑の石材は難破した外国船のバラスト(船の重り)を再利用したもので、歴史的遺跡の多く残された運天港の景色とともに、一度は見ておきたいものです。

参考文献:研究論文「源為朝来琉譚と発掘された沖縄」宮城弘樹氏(今帰仁グスクに掲載当時今帰仁村教育委員会、現在沖縄国際大学講師)今帰仁グスクを学ぶ会会誌より

「桜の季節にガイドとめぐる今帰仁の史跡」ツアーは今年も無事に終わりました。
ツアーの一コマをご紹介します。

ハンタ道と周辺史跡(Aコース)は、琉球時代の登城道を今帰仁グスクまで上ります。当時はふつうの道だったわけですが、現代人にとっては、トレッキングコース。ちょっとした山道です。とは言っても、子供でも上れる道ですからご安心を。

ハンタ道と周辺史跡Aコース2016年1月
出発前に100分の一模型で、グスクとかつて存在したムラなどをご紹介します。今帰仁グスクには3つのムラが連なっており、城下町として栄えたと思われます。


ハンタ道と周辺史跡Aコース2016年1月(2)
トレッキングコースなので、まずは体をほぐします。


ハンタ道と周辺史跡Aコース2016年1月(3)
ミームングスクとよばれる物見台。グスクからは見えない道のようすなどを、いち早く見て取ることができる物見台です。志慶真城郭へ合図を送ることができる位置にあります。


ハンタ道と周辺史跡Aコース2016年1月(4)
今帰仁グスク内をまわって、見学終了。実際に歩いてみると、登城道との関連がよくわかります。


ハンタ道と周辺遺跡Aコース
散策終了後の記念撮影。

お墓めぐり?なんて言わないでください

天然の良港とよばれた運天港と大北(うーにし)墓のご紹介です。

天然の良港とよばれる運天港
昔の運天港付近からのながめ。今では古宇利島へかかる古宇利大橋が見えます。ご紹介する大北(うーにし)墓はこの近くにあります。


大北(うーにし)墓は今帰仁監守の墓
大北(うーにし)墓は自然の岩をくり抜いた大きな墓。


大北墓の碑文
大北墓の碑文。葬られている人々が記録されている。



お墓めぐり?なんて言わないでください。このお墓は琉球の歴史が詰まっている場所なのです。

天然の良港とよばれた運天港に、大北(うーにし)墓があります。写真中をご覧いただくと、大きな岩をくり抜いて、みごとな墓が造られています。ここに北山監守(第二監守)が葬られています。監守とは役職名です。

今帰仁グスクの城主である北山王が倒されたあと、北山監守が、琉球の都となった首里から派遣され、今帰仁グスクを管理することになりました。監守派遣の理由が面白いのですが、「北山の地(琉球北部)は、都から遠くて険しく、住む人が勇猛だから、首里に反抗するかもしれない」というものです。

たしかに当時としては、琉球の中心である首里から北山の地は、船で往来するわけですから、遠かったに違いありません。今帰仁グスクは険しく見える山の上に建てられています。しかし、人が勇猛であるというのは、かなり悪口に聞こえます。滅ぼされた北山王は武道の達人だったが、人をひととも思わない人物だった。と伝えられているので、まったくの作り事ではないようですが、、。

今帰仁グスクに住んでいた監守は7世まで。北山監守が管理したおかげで、北山は王都首里に反抗することなく、統一された後の琉球王国は、安泰でありました。監守は首里王府におおきな貢献をしたわけです。それで、立派なお墓が造られ、いまでも伝統行事「今帰仁上り」には、おおぜいの人びとが、この大北(うーにし)墓に詣でるのです。


運天の集落と古墓めぐりは、「ガイドとめぐる今帰仁の史跡」のCコースに指定されています。

今帰仁監守3世は 寂しく一人今泊に眠る

開かん墓、監守3世が今泊に眠る

開かん墓、監守3世が今泊に眠る(2)
上の墓の写真は入口が閉じられていて、開かん墓とよばれます。

開かん墓とは、開かない墓と言う意味です。この墓は閉じられていて、開けることができません。ふつう、墓は入口があり、新しく亡くなった人の骨を入れることができますが、この墓は閉じられているので、もはや誰も入れないし、取り出すこともできません。

いわくのありそうなこの墓は、しかし、位の高い身分の人が葬られています。今帰仁監守三世、和賢(わけん)の墓です。正確には津屋口(つやぐち)墓といいます。

今帰仁監守(なきじんかんしゅ)とは、首里王府から派遣され、北山(ほくざん=琉球の北部地域)を治める重要な役職です。尚氏を名乗っているので、王家の一員で位は高いです。

和賢は病気ではなかったかと言われたりしますが、真相は不明。ちょっと悲しいような気がしますね。

監守1世から5世800.jpg
(監守のイラストは運天肇氏。今帰仁村文化財ガイドブック今帰仁城跡より転載させて頂きました。)


和賢のプロフィール:
監守三世 向和賢(しょう わけん)
の字を使ってしょうと読む、の字は一世のみが使用できる。
父の跡を継いで今帰仁間切総地頭職となるが、35歳で若くして亡くなる。監守一族は今帰仁グスク近くの大北(うーにし)墓に葬られるが、例外として津屋口墓に葬られている。

なお、一世尚韶威(しょうしょうい)は首里の玉陵(たまうどぅん)に葬られている。
5世克祉は薩摩入りの年に28歳の若さで亡くなっている。薩摩軍による焼き討ち事件の影響と考えられ、悲劇の監守と言えます。


開かん墓に咲いていた白いスミレ
開かん墓に咲いていた白スミレ。きっと今も咲いているでしょう。


津屋口墓(開かん墓)は、Bコース今泊集落の散策でめぐります。

今泊集落の地図、きれいに区画されている
今泊集落はグスク時代の城下町として、今帰仁グスク直下にありました。グスクを支えるための、城壁の石積み労役や水と食料の供給などを日常行うことによって、グスクの城主から守られ、見返りをうけて大いに栄えたと想像できます。

ところが、薩摩軍の侵略によって今帰仁グスクが廃城になると、集落ごと現在の海沿いの場所に下りてきます。集落移動という大変めずらしい事態が起こったのです。仕える城主がいなければ、便利な海沿いへ下りて、生計を立てなければなりません。

地図をご覧いただくと、実にきれいな格子状の道が通っています。風水の考えに基づいてムラ作りがなされたとされています。交差点には、石敢當(いしがんとう)とよばれる魔よけが立っています。

今泊集落の交差点、四角に区画されている
上の写真は、石敢當の代わりに子どもに注意の標識が立っているのが今風で面白い。
下の写真は、自然石の石敢當で大変めずらしいもの。

自然石の石敢當、今泊集落内
今泊の名前は、今帰仁ムラの「今」と親泊ムラの「泊」を組み合わせたもの。グスク直下にあった二つのムラが現在の今泊集落になっています。

今泊集落の散策は、ガイドとめぐる今帰仁の史跡Bコースに指定されています。

今帰仁城跡の平郎門 硬い古生代石灰岩で積まれている
上の写真は今帰仁城跡の平郎門 硬い今帰仁石灰岩で積まれている


今帰仁城跡の城壁は、硬い今帰仁石灰岩(古生代石灰岩)で石積みされています。この周辺はほとんどが今帰仁石灰岩で、路頭した岩をあちらこちらに見ることができます。

ところが、今帰仁城跡から少し下ると、違う石が混じっています。それが琉球石灰岩で、サンゴ礁のはたらきで出来た穴の開いた石灰岩です。

今帰仁城跡から数百m下ると、ミームングスクと呼ばれる石積みがあります。物見台か出城ではないかと考えられています。このミームングスクの石積みは、硬い今帰仁石灰岩ですが、すぐそばに、穴の開いた琉球石灰岩が混じっています。標高64mくらいの場所です。

サンゴ礁から出来た琉球石灰岩は、大昔は海水面付近にあったとされていますが、なんらかの大きな力が加わって隆起したのかもしれません。

ミームングスク付近の琉球石灰岩
ミームングスク(出城)
写真上:穴の開いた琉球石灰岩 写真下:ミームングスク(出城)



ミームングスクと呼ばれる物見台(出城)は、史跡散策ツアーのAコースに含まれています。

ブログ掲載用「散策ツアーチラシ」.jpg

(画像をクリックすると拡大しポップアップウィンドウで開きます)

2016年(平成28年)の「桜の季節にガイドとめぐる今帰仁の史跡」参加者募集が始まります。

お知らせは、トップページに詳しく掲載しています。

これまでと大きく違うところは、集合・解散場所が各コースによって異なることです。ちらしやお知らせの詳細を必ずご覧ください。

今帰仁グスクを学ぶ会が表彰されました

表彰状 沖縄県文化協会
地域文化の振興発展に貢献したことで、沖縄県文化協会団体賞を贈られました。

北山の風
(画像をクリックすると拡大します。)


「北山の風」は、今帰仁グスクに伝わる伝承を元に、創られた現代版組踊り。中高生が演じる、北山王と今帰仁グスク攻防の物語です。


物語はこんな感じです。以下は筆者がリライトしたもので、公演の内容とは異なります。

北山とは今帰仁グスクのことです。堅固なグスクである今帰仁グスクをめぐって権力争いがありました。
虎視眈々と今帰仁グスク乗っ取りを狙う家臣がいたのです。本部大主(もとぶうふしゅ)という人物です。 

 登場人物は、 
黒幕の家臣、本部大主 
今帰仁城主の側近の家臣、謝名大主 
今帰仁城主の側室、志慶真乙樽 
今帰仁城主の子、千代松 後の岡春 
王妃 

黒幕の本部大主が策略をめぐらします。今帰仁城主の側近の家臣、謝名大主(じゃなうふしゅ)が国頭地方で謀反が起こったとの知らせに、ただちに討伐に向かいますが、策略の罠にかかったのです。
側近の家臣、謝名大主が留守のあいだに、黒幕の本部大主は軍勢をひきいて今帰仁グスクになだれ込みます。折りしも、今帰仁城主の世継ぎ千代松の誕生祝の最中でした。

不意をつかれた今帰仁グスクの家臣や女たちは、戦いの備えもなく、逃げ惑うばかり。ようやく国頭地方からもどった謝名大主に助けられ、千代松と王妃、側室の乙樽は近くのクバの御嶽の岩屋に難を逃れますが、途中王妃は「産後でこれ以上歩けないから、この子を頼みます」と謝名大主と乙樽に千代松を託して志慶真川へ身を投げます。 

朝を待って、3人は恩納間切り(今の恩納村)の山田大主を頼って逃げ、身を潜めます。 千代松が山田大主のもとで8歳になったとき、名を岡春と改め北谷間切り(今の北谷町)へ落ち延び下人奉公をしながら、今帰仁グスク奪還のチャンスを待つのです。

やがて、その時が来て、岡春は勘手納港(かんてなこう、現在の名護市仲尾次の港)に以前の家臣たちを集め、3千人の大軍を率いて今帰仁グスクを攻め取ります。乙樽は城内に駆けつけ、岡春と再会します。 

この志慶真乙樽は、城主と岡春に対する忠誠と情けの深さから、後に、「神人」の位を授かります。【神人(かみんちゅ)とは、ノロの下で年中祭祀を行なう女性】 

(この北山騒動の話は、民話・伝承です。語り部によって多少の違いがあり、またそこが面白いのです。)

正門前の発掘調査はまだ続きます

正門前の発掘調査は続く
今帰仁グスクの正門前では、発掘調査が続いています。
昔の道は、今より少し下の方にあるようです。写真を見ると、石畳の道が見えます。
さらに、右のほうに曲がっているらしいです。

グスク時代の道は、どのようだったのでしょうか?解明される日が待たれます。

調査のため、現在、道は迂回しています。見学のお客様はもうしばらくご辛抱くださいませ。
新しい情報をガイドできる日も近いかもしれません。
前の10件 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11

過去の記事