フィドゥンチ遠景

写真上の祠(ほこら)はフィドゥンチと呼ばれます。火の神を祀った祠です。
「フィ」とは、古宇利島のこと。漢字では、古宇利殿内と書きます。殿内はトノウチではなく、ドゥンチと読みます。

古宇利島は、今帰仁村の唯一の離島。古宇利島の人々が旧暦8月に遥拝(遠くから拝む)するようです。それで、この祠は古宇利島の方向を向いているのです。

古宇利島は、今は観光地としてにぎわっています。古宇利島へ行く機会があれば、遥拝して安全祈願するのもいいかもしれません。

この祠が新しいのは、2010年に古写真を基に復元されたからです。赤瓦が目を引きます。近寄れば、石組みの壁と前庭に敷かれたサンゴがきれいです。中を覗くと、霊石が3組と香炉が3基置かれています。


フィドゥンチ拝み
         フィドゥンチを拝みに訪れた家族


フィドゥンチ
         赤瓦葺きのフィドゥンチ


フィドゥンチ古写真
         フィドゥンチの案内板より


旧フィドゥンチ
移築整備する以前のフィドゥンチ。門中(親族)が拝むようす。外郭整備中でブルーシートが敷かれている。

真夏の今帰仁グスク

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夏の今帰仁グスクを写真でご紹介します。

写真上:gusuku photo galleryより 2010年 撮影武田裕司氏
写真下:会誌10周年記念号より 2012年 撮影西谷

夏のグスク二人歩く

鎧の重さは20kg以上 旧道で敵兵を阻止!

小札、鎧の一部分
           出土した鉄製の小札(こざね)


小札(こざね)という鎧(よろい)の一部分が、今帰仁グスクから出土しています。鉄製で、ひもを通す穴が開いています。この小札を幾重にもつないで、鎧ができます。矢や刀を防ぎ、身を守る武装ですが、日本の鎧を調べてみると、その重さは20kg以上にもなります。

琉球のグスク時代は戦国時代です。日本式の鎧が使われていたことが、出土した小札(こざね)から推測できます。


グスク内の旧道 敵兵の侵入を阻むようにできている
    旧道の凸凹が上りにくく、岩盤が狭い空間を作っている


そこで、今帰仁グスクの旧道を見ると、敵兵の侵入を阻むようにできていることが、よくわかります。実際に歩いてみると、足下を見ながらでないと歩けません。鎧を身につければなおさら歩きにくいので、迎え撃つ側が有利です。


旧道に咲くテッポウユリ
       テッポウユリの咲く旧道 5月頃


旧道は、まっすぐな参道の途中から、右側にあります。四季折々の花も見られますので、上ってみてください。

戦国の時代が終わった後も、この旧道が使われていたと思われます。便利に直さなかったのでしょうか?今帰仁グスクの不思議の一つです。もしかすると、薩摩軍の侵入を予見していたのかもしれませんね。


出土した鉄製の小札(こざね)の画像は当ホームページの「今帰仁城跡出土品美術館」http://nakijingusuku.com/museum/2012/02/post-11.html  より
ひおどしの鎧_レプリカ            画像(1)


画像(1)は中山王に敗れた北山王 攀安知(はんあんち)が、武装したとされる「火威の鎧」(ひおどしのよろい)のレプリカ。「北山滅亡600年」の講演会場にて撮影。

当時、琉球では日本式の鎧を身に着けていたことがわかっている。今帰仁グスクから、小札(こざね)という鎧の部品が出土している。


書物に記された攀安知の姿は次のとおり。

「赤地ノ錦ノ直垂(ひたたれ)ニ、火威(ひおどし)ノ鎧(よろい)ヲ着、龍頭ノ甲(かぶと)の緒ヲシメ、千代金丸トテ、重代相伝ノ太刀ヲハキ、三尺五寸の小長刀(なぎなた)ヲ腋ニ挟ミ」

直垂とは、鎧の下に着る衣服。火威とは甲冑の小札(こざね・鉄や皮製の板)をつなぐ赤色のヒモのこと。


『中山世鑑』という首里王府編さんの書物には、攀安知の姿が、このように詳しく描かれている。この記述を基に上里隆史氏がイラスト化した。画像(2)

記述通りなら全身真赤で長刀持ちになるが、配色のバランスを考え、また、千代金丸を持たせて、イラストのようになっている。甲(かぶと)の龍の頭が、画像(1)のレプリカと比べると豪華な感じ。イラストは和々さん。

攀安知の姿、イラストは和々さん。
               画像(2)

今帰仁グスクを学ぶ会 会誌 10周年記念特別号に掲載された研究論文「北山王攀安知のイラスト復元の試み---『琉球戦国列伝』を通じて---」を基にこの記事を掲載しました。

「北山滅亡600年」特別企画 講演と対談

北山滅亡600年記念講演

  日時=514 () 14時から16

場所=今帰仁村コミュニティーセンターホール
◆講演「北山王攀安知のビジュアル復元の試み」(講師:上里隆史氏)
◆対談「北山滅亡とアジアの海の世界」(上里隆史氏・屋良健一郎氏 司会:宮城弘樹氏)

※攀安知の鎧「火威しの鎧」レプリカ公開あり

入場無料

主催=今帰仁グスクを学ぶ会
問い合わせ=080-6490-8250 (ヤマノウチ)


琉球のノロと現代の神人

今帰仁グスク正門で一礼する今帰仁ノロ
上の写真は、今帰仁グスク正門で一礼する今帰仁ノロ(2007年撮影)


琉球時代のノロを紹介すると、ほとんどのお客様は「巫女(みこ)?」と考えます。ノロは女性ですから、巫女と考えるのはもっともなことです。
ノロは琉球王国の制度でした。国の制度ですから、ノロは今で言えば国家公務員。ノロに任命されるときには、首里王府から辞令書が発行されます。辞令書には琉球国王の印が押してあります。(辞令書は今帰仁に残っていないのが残念ですが)

ノロと共に祭祀をつかさどるのが神人(かみんちゅ)と呼ばれる女性たちです。ノロも神人も、高齢化にともない、現在沖縄ではほとんど存在しません。
ところが、インターネットで「神人」「かみんちゅ」と検索すると、たくさん出てきます。これらの自称神人のサイトは、ユタです。ユタは琉球王国時代から存在したらしく、いわば、私設の占い師。霊感によって開業し、霊感で判じ事や祈願をおこないます。

首里王府が政治の側面としてノロ制度を定め、公務員としてノロを任命したのに対し、ユタは自分の霊感を基に自営業としてユタを始める。ここが大きな違いです。小説では、霊感豊かなノロが登場し、霊感によって祝詞(ミセゼル)を唱えますが、あくまでお話の設定です。ノロの任務は、年中祭祀を滞りなくきちんと行うことが大切。国の宗教なのですから、儀礼が大事です。

「すいてんがなし」とは首里城の琉球国王様を意味する言葉です。琉球国の祭祀をつかさどる上級ノロの祈願は、この「すいてんがなし」から始まることが記録されています。首里の王様を称え、琉球王国が永く存続することが最重要の祈願です。これを見ても、ノロの祈願は公務であることがわかります。

城内上の御嶽で祈願する今帰仁ノロ
上の写真は、城内上の御嶽で祈願する今帰仁ノロ(2007年撮影)


ノロと神人たち、今帰仁村歴史文化センターの案内版より
上の写真は、祈願するノロと神人たち。参加者の服装から、昭和初期の頃の画像か映像を元に描画したと思われる。(今帰仁村歴史文化センターの案内板より)

ウマの足形?という名の花です

ウマノアシガタ
今帰仁グスク内外に写真のような花が咲いています。ウマノアシガタ(馬の足形)と呼ばれるのですが、花の姿と名前がどうしても一致しません。

今帰仁城跡周辺の自然」によると、葉の形が馬の蹄(ひづめ)に似ているとか、鳥の足形の書き間違え、などの説が紹介されていますが、いづれの説も納得できそうもありません。

花がきらきら光っているのは、水滴ではなく、もともとの花の色艶で造花のように見えます。

近年、その数が減りつつあるということです。キンポウゲ科の植物なので、毒成分が含まれている可能性がありますので、手に取らないほうが安全です。

咲いている場所は、第2駐車場付近とグスク内の旧道付近にあります。

美しいシルバマは尻浜!?

今泊のシルバマは尻浜の意味だった
上の写真は、2016年1月下旬におこなわれた桜の季節散策ツアーの参加者の皆様。



今泊散策コースでめぐるシルバマ。白い砂浜、海の向こうには、伊江島や伊是名島が望める絶景。ここがシルバマです。

砂浜が白いからシルバマ、ではありません。集落の後ろにあるからシリバマ(尻浜)、それがなまってシルバマなのです。

(この説は今泊在住のガイド上間辰也さんによる)


今泊のシルバマ、白い砂浜が美しい
今泊集落のシルバマ。伊江島が見える。


今泊のシルバマ
シルバマの正面には、第二尚氏のはじめである尚円王の出身地、伊是名島が見える。

運天港にある源為朝上陸碑をガイドがご案内

「桜の季節にガイドとめぐる今帰仁の史跡」ツアーのひとコマ。源為朝上陸碑をご紹介します。上の写真は、ベテランガイドの説明を熱心に聴く参加者の皆様です。


源為朝上陸碑、書は東郷平八郎、国頭郡教育部会発起
「源為朝公上陸之趾」と刻まれた書は東郷平八郎の筆によるもの。
台座には国頭郡教育部会発起と刻まれています。

建立は大正11年。東郷平八郎と言えば、日本の幕末から明治時代の薩摩藩士で海軍軍人。国頭郡教育部会はこのころ、愛国心の育成を目的とした郷土教育をおこなっていた。

近代日本の皇民化教育のために、為朝が利用されたようです。しかし、それ以前に琉球の正史「中山世鑑」(1650年)に記録されているのです。

為朝が琉球北部の運天港に流れ着き、南部の有力者である大里按司の妹と結婚し、「舜天」という琉球王統の始祖が生まれた、というのです。

近代歴史学の研究によれば、為朝上陸は伝説であり、琉球王国(中山)が権威付けのために作為的に作ったもので事実ではないという結論です。

それにしても、この碑の石材は難破した外国船のバラスト(船の重り)を再利用したもので、歴史的遺跡の多く残された運天港の景色とともに、一度は見ておきたいものです。

参考文献:研究論文「源為朝来琉譚と発掘された沖縄」宮城弘樹氏(今帰仁グスクに掲載当時今帰仁村教育委員会、現在沖縄国際大学講師)今帰仁グスクを学ぶ会会誌より

「桜の季節にガイドとめぐる今帰仁の史跡」ツアーは今年も無事に終わりました。
ツアーの一コマをご紹介します。

ハンタ道と周辺史跡(Aコース)は、琉球時代の登城道を今帰仁グスクまで上ります。当時はふつうの道だったわけですが、現代人にとっては、トレッキングコース。ちょっとした山道です。とは言っても、子供でも上れる道ですからご安心を。

ハンタ道と周辺史跡Aコース2016年1月
出発前に100分の一模型で、グスクとかつて存在したムラなどをご紹介します。今帰仁グスクには3つのムラが連なっており、城下町として栄えたと思われます。


ハンタ道と周辺史跡Aコース2016年1月(2)
トレッキングコースなので、まずは体をほぐします。


ハンタ道と周辺史跡Aコース2016年1月(3)
ミームングスクとよばれる物見台。グスクからは見えない道のようすなどを、いち早く見て取ることができる物見台です。志慶真城郭へ合図を送ることができる位置にあります。


ハンタ道と周辺史跡Aコース2016年1月(4)
今帰仁グスク内をまわって、見学終了。実際に歩いてみると、登城道との関連がよくわかります。


ハンタ道と周辺遺跡Aコース
散策終了後の記念撮影。
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