北山の風
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「北山の風」は、今帰仁グスクに伝わる伝承を元に、創られた現代版組踊り。中高生が演じる、北山王と今帰仁グスク攻防の物語です。


物語はこんな感じです。以下は筆者がリライトしたもので、公演の内容とは異なります。

北山とは今帰仁グスクのことです。堅固なグスクである今帰仁グスクをめぐって権力争いがありました。
虎視眈々と今帰仁グスク乗っ取りを狙う家臣がいたのです。本部大主(もとぶうふしゅ)という人物です。 

 登場人物は、 
黒幕の家臣、本部大主 
今帰仁城主の側近の家臣、謝名大主 
今帰仁城主の側室、志慶真乙樽 
今帰仁城主の子、千代松 後の岡春 
王妃 

黒幕の本部大主が策略をめぐらします。今帰仁城主の側近の家臣、謝名大主(じゃなうふしゅ)が国頭地方で謀反が起こったとの知らせに、ただちに討伐に向かいますが、策略の罠にかかったのです。
側近の家臣、謝名大主が留守のあいだに、黒幕の本部大主は軍勢をひきいて今帰仁グスクになだれ込みます。折りしも、今帰仁城主の世継ぎ千代松の誕生祝の最中でした。

不意をつかれた今帰仁グスクの家臣や女たちは、戦いの備えもなく、逃げ惑うばかり。ようやく国頭地方からもどった謝名大主に助けられ、千代松と王妃、側室の乙樽は近くのクバの御嶽の岩屋に難を逃れますが、途中王妃は「産後でこれ以上歩けないから、この子を頼みます」と謝名大主と乙樽に千代松を託して志慶真川へ身を投げます。 

朝を待って、3人は恩納間切り(今の恩納村)の山田大主を頼って逃げ、身を潜めます。 千代松が山田大主のもとで8歳になったとき、名を岡春と改め北谷間切り(今の北谷町)へ落ち延び下人奉公をしながら、今帰仁グスク奪還のチャンスを待つのです。

やがて、その時が来て、岡春は勘手納港(かんてなこう、現在の名護市仲尾次の港)に以前の家臣たちを集め、3千人の大軍を率いて今帰仁グスクを攻め取ります。乙樽は城内に駆けつけ、岡春と再会します。 

この志慶真乙樽は、城主と岡春に対する忠誠と情けの深さから、後に、「神人」の位を授かります。【神人(かみんちゅ)とは、ノロの下で年中祭祀を行なう女性】 

(この北山騒動の話は、民話・伝承です。語り部によって多少の違いがあり、またそこが面白いのです。)

正門前の発掘調査はまだ続きます

正門前の発掘調査は続く
今帰仁グスクの正門前では、発掘調査が続いています。
昔の道は、今より少し下の方にあるようです。写真を見ると、石畳の道が見えます。
さらに、右のほうに曲がっているらしいです。

グスク時代の道は、どのようだったのでしょうか?解明される日が待たれます。

調査のため、現在、道は迂回しています。見学のお客様はもうしばらくご辛抱くださいませ。
新しい情報をガイドできる日も近いかもしれません。
攀安知(はんあんち)

今帰仁グスクの最後の王である北山王攀安知(はんあんち)は1416年に中山軍に滅ぼされますが、その人柄はどちらかといえば良くない人物として描かれてきました。しかし、明(中国)と積極的に朝貢するなど北山の繁栄に貢献した人物でもあります。

歴史書『球陽』では彼を「武芸絶倫」や「淫逆無道」、また『中山世鑑』では「勇力ノ剛者」と記しています。

その姿は意外に詳しく描かれていて、歴史家上里隆史氏がイラスト復元を試みました。(以下引用。改行はブログ記事投稿者による。)

中山軍に立ち向かう攀安知の姿は
「赤地ノ錦ノ直垂【ひたたれ】ニ、火威【ひおどし】ノ鎧【よろい】ヲ着、龍頭ノ甲【かぶと】ノ緒ヲシメ、千代金丸トテ、重代相伝ノ太刀ヲハキ、三尺五寸ノ小長刀【なぎなた】ヲ腋ニ挟ミ」(『中山世鑑』)とあることから、この記述をもとにイラスト化した。

直垂とは鎧の下に着る衣服で、火威とは甲冑の小札【こざね】(鉄や革製の板)をつなぐ赤色のヒモのことである。つまり彼の出立ちは全身真っ赤だったことを意味する。

ただイラスト化に当たっては配色のバランスも考え、直垂は真っ赤にせず、萌黄【もえぎ】色になった。また兜の上には龍の頭をかたどった装飾品が付いている。日本刀の千代金丸は那覇市歴史博物館に現存するのでそれを根拠とした。

なぎなたは今回採用せず、千代金丸を描いています。イラストは和々さん。


北山王攀安知のイラスト復元の試み?『琉球戦国列伝』を通じて? 上里隆史氏(早稲田大学琉球・沖縄研究所招聘研究員) 今帰仁グスク特別号より 上里氏から許可を得てイラストを掲載しています。

『琉球戦国列伝』はボーダーインク社より出版されています。



海道新聞リンク用(画像をクリックすると別ウィンドウで拡大します。)


海道新聞02-500

今帰仁グスクをご両親と共に訪れた女子中学生が、「世界遺産の歩き方」をまとめてくれました。

「攻めにくい城は住みにくい?」 今まで誰も思いつかなかったタイトルです。

「二つの時代が共存する空間」 これも普段なんとなく見過ごしている部分です。今帰仁グスク主郭には、14世紀と16世紀の住居跡が並んで配置されています。指摘されて初めて納得。

コラムには、石の間にはさまれた金属片を丁寧に観察しています。金属片は修復の境目を示す重要なもの。

初めて訪れた方が、今帰仁グスクをどのように見たのか。目からウロコの世界遺産の歩き方でした。



伝統行事 門中による今帰仁上り

今帰仁上り金城門中500
今帰仁上り金城門中02-500
門中(むんちゅう)と呼ばれる親族一同が今帰仁グスクを詣でる、今帰仁上り(なきじんぬぶい)は、1800年代に始まったとされる伝統行事です。

旧盆が終わると今帰仁上りが始まります。今年真っ先にグスクを詣でたのは、糸満の金城門中。北山王攀安知(はんあんち)の次男の子孫です。

攀安知は中山軍に滅ぼされ、難を逃れた次男が身元を隠すため金城と名を変えて生き延びました。潮平という集落は、かつてはムラ全体が金城姓だったといいます。

潮平集落では、戦前は畳表に使うイグサを、その後はキビを栽培したようです。潮平の名は、初め製塩業を営んだからと思われます。

今帰仁グスク 空の風景

グスクの空01-500
グスクの空02-500
グスクの空03-500

10周年記念講演会

10周年記念講演会1
金装宝剣千代金丸のレプリカが創られたいきさつや、日本刀が鉄の塊りから打ち出されるビデオなど、初めて聴くことばかりでした。

中山(ちゅうざん)が北山を破り、琉球を統一した力は鉄でした。鉄は農具になるし、武器にもなります。



10周年記念講演会2
海底に眠る陶磁器や船の碇(いかり)などを調査するきっかけは、今帰仁今泊の仲村渠(なかんだかり)氏の陶磁器コレクションでした。仲村渠氏は海岸に打ち上げられた陶磁器を集めています。


講演会の講師は、今帰仁村歴史文化センター館長の仲原弘哲氏、沖縄国際大学講師の宮城弘樹氏。お二人の講演は満席の聴衆でした。今帰仁グスクを学ぶ会の設立と運営に深く関わった、この二人がいなかったら、今の学ぶ会はありませんでした。

平郎門の大石を運んだのは私です!

平郎門の大石を運んだのは私
今帰仁グスクの正門は、平郎門と呼ばれます。この平郎門は約50年前、昭和30年代に、琉球政府によって修理されました。下の写真はその時の様子です。画像が不鮮明ですが、やぐらを組み、滑車を使って大石を引っ張りあげているところです。

平郎門修理 琉球政府
ガイドの岸本さんが、当時修理作業に従事した方から、石のあった場所を聞くことができました。石はグスクの近くにあり、トラックで運んだそうです。

下の写真は、石の場所を示しているところ。石は平郎門と志慶真乙樽の歌碑に使われました。歌碑は階段を上げるため、米軍の四輪駆動車を使い、片輪を路肩に乗せてバックで登ったとのことです。

平郎門の石を運んだのは私
こうした地元の方々の苦労によって、現在の平郎門があるわけです。奇しくもガイドのメンバーが平郎門修復に従事した方とめぐり合い、貴重な証言を聞くことができたのでした。

こはおの御嶽(クバの御嶽)最近の姿

クバの御嶽1

今帰仁グスクのすぐ近くにあるクバの御嶽(うたき)が、日本国の名勝に指定されます。琉球の時代から現代まで、信仰の聖地とされている御嶽です。

高さ約180mの丘全体が御嶽とされています。

クバの御嶽2
クバの御嶽3

記念講演500.jpg

今帰仁グスクを学ぶ会は創設以来10周年を迎えます。当日は記念式典と記念講演会がおこなわれます。

日時: 2015年8月1日(土)
午後3時から記念式典
午後3時50分から記念講演会

演題は
1.「宝剣千代金丸と北山滅亡」(題は変更になったため画像と異なります)。講師:仲原弘哲氏。
2.「沖縄の水中文化遺産」。講師:宮城弘樹氏。

講師は今帰仁グスクを学ぶ会の創設と運営に深く関わった宮城弘樹氏と仲原弘哲氏。
入場は無料です。

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