ハンタ道は琉球時代に使われた登城道

ハンタ道の清掃1
わき道には航海安全祈願のウーニーもある。


ハンタ道は、琉球時代から大正期まで使われた登城道です。今では歩く人もいないため、夏場は草に覆われてしまいます。

これから来られるお客様が登れるように、草刈清掃をおこないました。
ガイド有志と教育委員会の清掃のみなさま、お疲れ様でした。


ハンタ道の清掃2
巨大なガジュマルのような樹木。かつての集落跡でもある。



ハンタ道の清掃3
天然の石畳の道。明治の探検家 笹森儀助が大理石のようだと形容したところか?



ハンタ道の清掃4
尽きることのない湧き水はエーガー(親川)と呼ばれ、拝みの場でもある。台風後で木の枝が散乱。



ハンタ道の清掃5
ツマベニチョウがサンタンカに飛来。


今帰仁グスクの石灯ろうとショウキズイセン
写真奥の石灯ろうが新しいもの


今帰仁グスク主郭にある石灯ろうです。かなり摩耗していますが、歴史上重要な実物です。 

もともと琉球に存在しない石燈籠が今帰仁グスクにあるのは以下の理由があります。

この石灯ろうは、今帰仁監守十世の向宣謨(しょうせんも)が、薩摩出張の折に持ち帰った石で作らせたとされています。 

一番新しい灯ろうには「奉寄進」と刻まれていて、火の神の祠に寄進しています。石灯ろうのかたちが少し稚拙に思えるのですが、薩摩から持って来た限られた石を組み合わせたためでしょうか。


注)尚家の「尚」の字は直系のみが使用し、傍系は「向」と書き、しょうと読んだのでした。


この石灯ろう、多くの方は気がつかずに通り過ぎるのですが、今の時期にはショウキズイセンが色どりを添えてくれます。

大隅の城壁が崩落

崩落した今帰仁グスク、大隅の城壁1

今帰仁グスクの大隅の城壁が崩落しました。夜間だったため、人的被害はありませんでした。崩落の原因は調査中で、修復にはかなりの時間がかかりそうです。しばらくは、大隅の城郭へ立ち入りができません。大隅郭以外は、入れますので見学に大きな支障はありません。

今帰仁グスクのガイド始まって以来の崩落です。お客様とは崩落の話題がしばしば出る事はありましたが、城壁の崩落が現実のものとなりました。

今帰仁グスク、崩落した大隅の城壁2

硬い石灰岩を野面積みで積み上げた城壁ですから、経年変化により自然崩壊の恐れがあります。高い城壁には近づかないほうが安全です。

城壁に張り付くようにして、写真を撮っていたお客様が以前おられましたが、今考えるとひやりとします。
幸い、今回の崩落現場はあまり人の入らない郭の側へ崩壊したので、表向きには崩落が目立ちません。

崩落した今帰仁グスク、大隅の城壁3
表側からはわずかに城壁の欠けた部分がわかる程度。


今後は、今帰仁村の出来る限りの早い対応が望まれます。


伝統の行事、門中の今帰仁上り

今帰仁グスクのカラウカーと呼ばれる拝所で祈願する門中のひとびと

門中による「今帰仁上り」という伝統行事が始まっています。旧盆が終わり秋にかけて、門中と呼ばれる男系親族の一団が、今帰仁グスクを中心に、聖地めぐりをおこないます。これが「今帰仁上り」です。沖縄語では「なきじんぬぶい」と言います。

今日は、いくつもの門中が、観光バスで今帰仁グスクへ訪れました。ガイドの合間をぬって後ろのほうで、撮影させてもらいました。

門中のひとたちは、供え物、線香、ウチカビなどを風呂敷に包んで、聖域を目指します。観光のお客様とは、持ち物が違うのですぐにわかります。


今帰仁グスクのソイツギの御嶽で祈願する門中のひとびと


祈願する内容は、一門の繁栄や無病息災などでしょう。拝所や御嶽(うたき)に供え物や線香を配置すると、年長者の合図で全員が手を合わせます。

祈願する拝所や御嶽は、門中ごとに少し異なり、伝承によって決まっているようです。5年に一度のわりで、この行事をおこなう門中が多いようです。



門中とは、元々は士族(武士)が組織したのが始まりです。首里王府に仕える士族が系図を作り、王府に提出します。門中に名を連ねていなければ、王府に仕えることができませんから、系図は履歴書や身分証明のようなものです。こうして、門中の結束は非常に固くなっていきます。後に、門中組織は農民階級にも広まっていきました。


今帰仁上りの起源は1800年代とされています。1879年には琉球処分がおこなわれ、琉球王国は存亡の危機にさらされます。そのような激動の時代に始まった行事だとすれば、琉球士族が自らの拠りどころとして、今帰仁詣でを位置づけたのかもしれません。

今帰仁グスクは聖地!?

今帰仁グスクの拝所で祈願する人びと
写真は今帰仁グスクの拝所で祈願する人びと。


今帰仁グスクは聖地でもあり、現代沖縄の人びとも詣でるのです。お客様にご案内すると、少し驚かれます。

今帰仁グスクが北山王の居城から、どのようにして聖地になったのか調べるのは、これからの課題です。それはさておき、聖地として詣でる人びとが秋になると続々と登城します。


御嶽(うたき)や拝所を詣で祈願することは、現代の人々にとっても大切なことです。古の琉球の神々は、いまでも同じ神々で、変わることがありません。

その古の神々に詣でることは、現代沖縄の人々にとって、精神的よりどころであり、自分のルーツを再確認することにもつながります。 

今帰仁グスクを中心とした聖地巡りは、日本ではなく琉球へと道が開けているような気がします。


今帰仁城内下の御嶽(うたき)
城内下の御嶽(うたき)は首里王府がリストアップした御嶽の一つでソイツギとも呼ばれる。


上の写真で、香炉に黒い線香と米が、手前の石の上にはさい銭が置かれています。今しがた祈願が終わった御嶽です。

今帰仁グスクでクヮンソウが満開

今帰仁グスクのクヮンソウ1
今帰仁グスクで、クヮンソウが満開です。クヮンソウは沖縄語、和名はアキノワスレグサ(秋の忘れ草)、学名はヘメロカリス。

安眠の薬草として古くから利用されてきました。花を湯がいて、はちみつを混ぜたラッキョウ酢に漬けると美味です。花のオレンジ色は、カロテンが含まれていそうで、おかずの一品になりますし、生の花をそのまま食べるのも意外に美味しいです。

この花は一日花で、夕方にはしぼんでしまいます。翌朝、別の花が開花しますから、花の時期にはいつでも咲いているように見えます。10月くらいまで花を楽しめそうです。


今帰仁グスクのクヮンソウ2

少し早めのヒガンバナが咲きました

今帰仁グスクにヒガンバナが咲く
今帰仁グスクにヒガンバナ(彼岸花、別名はマンジュシャゲ曼珠沙華、学名はリコリス)が咲き始めました。彼岸のころ花咲くことからヒガンバナと呼ばれるようですが、彼岸には少し早い開花となりました。ツワブキの丸い葉の間から、まっすぐな花茎を伸ばし、ひげのように見えるのが雄しべです。

中国から伝わり、北海道から琉球列島まで広がった植物です。きれいな花ですが、植物体全部が有毒です。有毒を利用して、モグラやネズミを避けるため田畑に植えたとされます。

一方、有毒ゆえに、植えて繁殖させておき、飢饉のときに毒抜きして食べた救荒植物でもあります。食用植物なら、年貢として収めるため身近に残らないからです。やはり有毒のソテツを思わせる利用法です。


沖縄タイムスに学ぶ会のチニブ製作が掲載された
今帰仁グスクを学ぶ会は、ガイド活動のほかにも、今泊集落の景観保全の活動をおこないました。チニブと呼ばれる伝統的な竹垣を作り、フクギ並木に設置しました。

画像は沖縄タイムスWeb版に掲載された記事です。クリックで拡大します。

本部町具志堅のシニグを見ました

具志堅のシニグ舞の入場、お宮に向かって拝む
シニグ舞の登場、お宮と呼ばれる聖域に向かって拝む。
先頭の白衣装はノロ役。


年配者が先頭で太鼓と唄を謡う
年配者のおばあたちが先頭になり、太鼓や唄を謡う。
口伝えで継承しているのだろう。


具志堅のシニグ 円陣になって踊る
円陣になって踊る。白鉢巻に濃紺か黒のかすり様の着物。
数人の草履以外は足元は黄色の島ゾウリ。


大きなノボリ旗には、神徳霊妙と書かれている
大きなノボリ旗には神徳霊妙と書かれている。
階段の上にお宮と呼ばれる聖域がある。


具志堅のシニグ 米で作ったお神酒が振舞われた
お神酒が振舞われた。米100%のお神酒は少し甘酸っぱい。


シニグの舞は夕方の5時ころ。まだ太陽は高く43名の踊り手は額に汗。
シニグの舞いは夕方の5時ころ。南国の太陽はまだ高く、
43名の踊り手は額に汗していました。


伝統的な具志堅の神ハサギは貴重な文化財
具志堅の神ハサギは伝統的な創りで、
茅葺の低い軒とサンゴ石の柱が特徴。



カメラマンも多かったので、筆者も無遠慮に撮影しましたが、シニグはやはり神に捧げる舞いです。見ていて少し神妙な気持ちになりました。全部で13曲の舞いがおこなわれたと教わりました。もちろん唄の言葉は聞き取れません。唄は口伝えで継承しているのでしょう。

お神酒は米だけで作った、と教えていただきました。振舞われたお神酒の味は少し甘酸っぱく、アルコール発酵はしていません。昔は乙女に米を噛ませて醸したとされます。

シニグは必ず旧暦の7月25日におこなう、台風が来ても、と教えていただきました。旧盆明けの亥の日です。新暦では今年は8月20日に当たります。


シニグとは

「シヌグは神祭り舞い、または聖なる踊りの意で、具志堅のシニグ舞いは旧暦7月25日に行われる。村の女性たちが紺地の着物を着、ウシンチーにして舞いを奉納する。舞には拝み手、押し手など琉球舞踊の技の原型があり、具志堅のシニグ舞いはよく保存されており、毎年県内外の研究者が訪れる。」 (本部町教育委員会 具志堅のシニグ舞い 町指定無形民族文化財)


具志堅の神ハサーギ 

「この神ハサーギ(アサギ)は古い姿を残している。本部町唯一のハサーギで学術上貴重なものである。その構造は石柱で軒の低い茅葺で、床や壁のないのが特色である。 神ハサーギは祭礼の日、神々が降臨し氏子より祝福を受けまたは、神遊びをする聖なる所とされている。ハサーギの内部東側には、神の上り下りする神木タムト木がおかれている。」(説明文より)

 
今泊(いまどまり)と具志堅(ぐしけん)の祭祀

今帰仁グスク直下の集落である今泊には、今では祭祀が見られません。しかし、隣の本部町具志堅(もとぶちょう ぐしけん)にはシニグが保存されています。

航海安全の舟漕ぎ儀礼がおこなわれるウーニー(御舟)は、今帰仁ウーニーと本部(具志堅)ウーニーが並んでいるのです。かつては、今帰仁と本部の区別はなく、この2つの集落、今帰仁ムラ(現在の今泊)と具志堅は隣り合ったグスク直下にある集落だったのです。
具志堅の「お宮」と呼ばれる聖域から、今帰仁グスクへ向かって遥拝する儀礼があるそうです。

海神祭2日目、城内上の御嶽テンチジ・アマチジで祈願する今帰仁ノロ

海神祭第2日目

今帰仁グスクの海神祭(うんじゃみ)の第2日は、旧盆あけの亥の日におこなわれ、城大折目(グスクウイミ)とも呼ばれます。第1日目は、御舟漕(ウーニフジ)と呼び、舟漕ぎの儀礼が行われます。

今帰仁グスクでの海神祭は現在おこなわれていません。海神祭2日目を再現してみました。
以下の文章は会誌「今帰仁グスク」3号からの引用です。


神アサギ跡、ここから海神祭2日目が始まる
海神祭2日目は神アサギ跡から御願(ウガン)が行われる


ユウウスイ神アサギ跡から御願(ウガン)は行われる。前日と同時刻で、今帰仁ノロ・区長・書記と、この日は他に志慶真乙樽の神人が参加。

アサギ跡中央にある黒褐色の香炉の前に茣蓙(ござ)が敷かれ、花米・供物・酒・五水を添えて、今帰仁ノロは白神衣装、白鉢巻姿になり、線香二平(ニヒラ)に火をつけ香炉の上にのせ祈願する。方向はテンチジ・アマチジ(城内上の御嶽)を向いていた。



カラウカー、海神祭の2日目に今帰仁ノロが祈願する拝所のひとつ
海神祭2日目に今帰仁ノロが祈願する拝所カラウカー


祈願後、今帰仁ノロは櫂(かい)にたとえた竹杖を持って、一人カラウカーに行き、立ったまま竹杖を胸に添えて合掌して竹杖を3回左廻りにして唱えて終える。

その後、主郭にある具志川御殿火の神祠に移動して、戸を開いて前に立ち「カラウカー」と同じ動作の祈願を行う。


里主所火の神の祠、具志川御殿火の神の祠とも呼ばれる
具志川御殿火の神の祠。今帰仁里主所火の神の祠とも呼ばれる。



テンチジ・アマチジ、ソイツギと移動し、同様の祈願と唱をして再びアサギ跡に戻ってくると、城内(グスクウチ)の儀礼が終了する。


ソイツギ、海神祭2日目に下の御嶽ソイツギで祈願する今帰仁ノロ
ソイツギ(城内下の御嶽)で祈願する今帰仁ノロ


その後、城(グスク)を出て車でシバンティナ浜へ行く。波打ち際にて櫂(エーク、カイ)の竹を砂浜に突き立て、その前に供物・酒・五水を添えて火をつけない線香を二平置き、伊平屋・伊是名の方へ向かって神々を送る祈りをする。海水に入って手足を清め、海水を手に取って頭につける(塩撫で、ウスナデー)。そして海神祭は終了する。
書記が今帰仁ノロ・区長・志慶真乙樽神人達(カミングヮ)へ、パイ餅と呼ばれるものを配り、2日目の行事は終わる。


引用は「(続編)御嶽の構造とグスク」 長浜眞詳(今帰仁グスクを学ぶ会 会員) 今帰仁グスク3号 より

引用している長浜眞詳氏の記事は、2007年8月に今帰仁ノロに動向する許可を得て、同行取材した記録です。
今帰仁ノロの画像は2007年に記事の投稿者が撮影。



前の10件 2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

過去の記事