本部町具志堅のシニグを見ました

具志堅のシニグ舞の入場、お宮に向かって拝む
シニグ舞の登場、お宮と呼ばれる聖域に向かって拝む。
先頭の白衣装はノロ役。


年配者が先頭で太鼓と唄を謡う
年配者のおばあたちが先頭になり、太鼓や唄を謡う。
口伝えで継承しているのだろう。


具志堅のシニグ 円陣になって踊る
円陣になって踊る。白鉢巻に濃紺か黒のかすり様の着物。
数人の草履以外は足元は黄色の島ゾウリ。


大きなノボリ旗には、神徳霊妙と書かれている
大きなノボリ旗には神徳霊妙と書かれている。
階段の上にお宮と呼ばれる聖域がある。


具志堅のシニグ 米で作ったお神酒が振舞われた
お神酒が振舞われた。米100%のお神酒は少し甘酸っぱい。


シニグの舞は夕方の5時ころ。まだ太陽は高く43名の踊り手は額に汗。
シニグの舞いは夕方の5時ころ。南国の太陽はまだ高く、
43名の踊り手は額に汗していました。


伝統的な具志堅の神ハサギは貴重な文化財
具志堅の神ハサギは伝統的な創りで、
茅葺の低い軒とサンゴ石の柱が特徴。



カメラマンも多かったので、筆者も無遠慮に撮影しましたが、シニグはやはり神に捧げる舞いです。見ていて少し神妙な気持ちになりました。全部で13曲の舞いがおこなわれたと教わりました。もちろん唄の言葉は聞き取れません。唄は口伝えで継承しているのでしょう。

お神酒は米だけで作った、と教えていただきました。振舞われたお神酒の味は少し甘酸っぱく、アルコール発酵はしていません。昔は乙女に米を噛ませて醸したとされます。

シニグは必ず旧暦の7月25日におこなう、台風が来ても、と教えていただきました。旧盆明けの亥の日です。新暦では今年は8月20日に当たります。


シニグとは

「シヌグは神祭り舞い、または聖なる踊りの意で、具志堅のシニグ舞いは旧暦7月25日に行われる。村の女性たちが紺地の着物を着、ウシンチーにして舞いを奉納する。舞には拝み手、押し手など琉球舞踊の技の原型があり、具志堅のシニグ舞いはよく保存されており、毎年県内外の研究者が訪れる。」 (本部町教育委員会 具志堅のシニグ舞い 町指定無形民族文化財)


具志堅の神ハサーギ 

「この神ハサーギ(アサギ)は古い姿を残している。本部町唯一のハサーギで学術上貴重なものである。その構造は石柱で軒の低い茅葺で、床や壁のないのが特色である。 神ハサーギは祭礼の日、神々が降臨し氏子より祝福を受けまたは、神遊びをする聖なる所とされている。ハサーギの内部東側には、神の上り下りする神木タムト木がおかれている。」(説明文より)

 
今泊(いまどまり)と具志堅(ぐしけん)の祭祀

今帰仁グスク直下の集落である今泊には、今では祭祀が見られません。しかし、隣の本部町具志堅(もとぶちょう ぐしけん)にはシニグが保存されています。

航海安全の舟漕ぎ儀礼がおこなわれるウーニー(御舟)は、今帰仁ウーニーと本部(具志堅)ウーニーが並んでいるのです。かつては、今帰仁と本部の区別はなく、この2つの集落、今帰仁ムラ(現在の今泊)と具志堅は隣り合ったグスク直下にある集落だったのです。
具志堅の「お宮」と呼ばれる聖域から、今帰仁グスクへ向かって遥拝する儀礼があるそうです。

海神祭2日目、城内上の御嶽テンチジ・アマチジで祈願する今帰仁ノロ

海神祭第2日目

今帰仁グスクの海神祭(うんじゃみ)の第2日は、旧盆あけの亥の日におこなわれ、城大折目(グスクウイミ)とも呼ばれます。第1日目は、御舟漕(ウーニフジ)と呼び、舟漕ぎの儀礼が行われます。

今帰仁グスクでの海神祭は現在おこなわれていません。海神祭2日目を再現してみました。
以下の文章は会誌「今帰仁グスク」3号からの引用です。


神アサギ跡、ここから海神祭2日目が始まる
海神祭2日目は神アサギ跡から御願(ウガン)が行われる


ユウウスイ神アサギ跡から御願(ウガン)は行われる。前日と同時刻で、今帰仁ノロ・区長・書記と、この日は他に志慶真乙樽の神人が参加。

アサギ跡中央にある黒褐色の香炉の前に茣蓙(ござ)が敷かれ、花米・供物・酒・五水を添えて、今帰仁ノロは白神衣装、白鉢巻姿になり、線香二平(ニヒラ)に火をつけ香炉の上にのせ祈願する。方向はテンチジ・アマチジ(城内上の御嶽)を向いていた。



カラウカー、海神祭の2日目に今帰仁ノロが祈願する拝所のひとつ
海神祭2日目に今帰仁ノロが祈願する拝所カラウカー


祈願後、今帰仁ノロは櫂(かい)にたとえた竹杖を持って、一人カラウカーに行き、立ったまま竹杖を胸に添えて合掌して竹杖を3回左廻りにして唱えて終える。

その後、主郭にある具志川御殿火の神祠に移動して、戸を開いて前に立ち「カラウカー」と同じ動作の祈願を行う。


里主所火の神の祠、具志川御殿火の神の祠とも呼ばれる
具志川御殿火の神の祠。今帰仁里主所火の神の祠とも呼ばれる。



テンチジ・アマチジ、ソイツギと移動し、同様の祈願と唱をして再びアサギ跡に戻ってくると、城内(グスクウチ)の儀礼が終了する。


ソイツギ、海神祭2日目に下の御嶽ソイツギで祈願する今帰仁ノロ
ソイツギ(城内下の御嶽)で祈願する今帰仁ノロ


その後、城(グスク)を出て車でシバンティナ浜へ行く。波打ち際にて櫂(エーク、カイ)の竹を砂浜に突き立て、その前に供物・酒・五水を添えて火をつけない線香を二平置き、伊平屋・伊是名の方へ向かって神々を送る祈りをする。海水に入って手足を清め、海水を手に取って頭につける(塩撫で、ウスナデー)。そして海神祭は終了する。
書記が今帰仁ノロ・区長・志慶真乙樽神人達(カミングヮ)へ、パイ餅と呼ばれるものを配り、2日目の行事は終わる。


引用は「(続編)御嶽の構造とグスク」 長浜眞詳(今帰仁グスクを学ぶ会 会員) 今帰仁グスク3号 より

引用している長浜眞詳氏の記事は、2007年8月に今帰仁ノロに動向する許可を得て、同行取材した記録です。
今帰仁ノロの画像は2007年に記事の投稿者が撮影。



今帰仁グスクの海神祭(うんじゃみ)

2002年撮影の今帰仁グスクの海神祭(うんじゃみ)

今帰仁グスクの海神祭(うんじゃみ)は、旧盆が終わって亥の日をはさんでおこなわれて来ました。残念ながら今は見られませんが、再現してみました。


第1日目
ウーニーでの祈願

ハンタ原ウーニーとレコーラウーニーで祈願する。ウーニーとは舟のこと。


ハンタ原ウーニーは、自然石を舟に見立てたもの。今帰仁ウーニーと本部ウーニーの2つがある。

ハンタ原の本部ウーニー
ハンタ原の今帰仁ウーニー
今帰仁ウーニーの特徴は、石の上に細長く舟方のような溝があり、本部ウーニーは溝の上部が円錐形。この2つのウーニーから海が見え、ウーニーに向かうと、シバンティナ浜の方向を向いている。この石のウーニーの上で線香を焚いて祈願する。
祈願を終えると、今帰仁グスクへと向かう。


レコーラウーニーは、今帰仁グスク外郭にある2つの土盛り。長いほうが本部ウーニー、もう一つが今帰仁ウーニー。

今帰仁グスク外郭にあるレコーラウーニー

レコーラウーニー祈願
今帰仁ウーニー・本部ウーニーの舟形マウンドに、櫂(かい)に例えた1mくらいの竹を各ウーニーの縁へ3本ずつ添える。この櫂に例えた竹は、祈願後、杖の代わりとして持ち、平郎門、各御嶽で櫂を漕ぐ仕草をするために持ち続ける。海神祭の終了後には、火の神壇の横へ立て置くか、縁側の軒の上にしばらく置いておくと言われた。

祈願では、舟形の中腹に花米・供物や酒・五水をお供えして、今帰仁ウーニー・本部ウーニーと順に航海安全、無病息災、五穀豊穣、子孫繁栄の祈願を行い、今帰仁ノロ1人が竹杖を持ってグスクの平郎門へ向かう。平郎門の前に立ち、竹(櫂)を胸に添え、合掌してお祈りし、その竹を左廻り(時計の逆廻り)に地面に3回円を描くようにまわし、「ウークイ、ウークイ、ウークイ」を唱える。再びレコーラウーニーの方へと戻る。これで初日戌(いぬ)の日の行事は終わる。


参考・引用は「(続編)御嶽の構造とグスク」長浜眞詳(今帰仁グスクを学ぶ会 会員) 今帰仁グスク3号 より


フウリンブッソウゲとコルチカム

今帰仁グスクの植物は四季折々、お客様を楽しませてくれます。きょう目立ったのは、フウリンブッソウゲ(風鈴仏桑華)とコルチカムです。

フウリンブッソウゲ(風鈴仏桑華)
フウリンブッソウゲ
ハイビスカスを和名で仏桑華と言いますが、その名の由来を探してみました。

中国でハイビスカスを「扶桑」という。日本に渡来したとき、華(花)を付けて「扶桑華」(フソウゲ)と呼んだ。これがなまり「仏桑華」になった。この花を仏前に供える習慣から、「仏」の字が当てられた。

とありました。墓地に植栽する習慣もあるらしいので「仏」はそのためなのでしょう。


一方、英名ではコーラル・ハイビスカスと言います。コーラルつまり珊瑚(さんご)の形と色に似ているというのです。国によってその印象はかなり違うものですね。


コルチカムはイヌサフランの園芸品種
コルチカムはイヌサフランを改良した園芸品種です。イヌサフランはサフランに似ていますが、まったく別のもので、有毒です。イヌと名のつく植物は、どうも印象がよくありません。コルチカムはきれいな花を咲かせますが、触らずに見るだけにしておきましょう。

チニブ(屋敷囲い)が完成しました

チニブ完成1
チニブ設置の最終仕上げ作業。左がやんばる竹、右側が割り竹で製作したもの。



2014年3月から製作を続けてきたチニブを今泊集落の屋敷に設置し、ついに完成。公民館で完成式がありました。

屋敷入り口に立てて目隠しとする、つい立てのことをヒンプンと称します。海のサンゴ石やブロックをセメントなどで固めたものです。チニブはヒンプンの代わりに、竹などで編んだ簡易なものを指します。

今回製作したチニブは、太い竹を割った割り竹と、細いやんばる竹の2種類。写真のように編んであります。


設置前の写真がないので設置後の比較ができませんが、設置前はトタンで囲ってありました。トタンは外観も悪く、せっかくのフクギ並木が生かされません。トタンをチニブに換えることで、景観がずっとよくなります。

今泊集落は、格子状集落として沖縄県内でも屈指の集落で、世界遺産に匹敵するとも言われます。その今泊の景観保全のお手伝いをしたのが、今回のチニブ製作と設置作業なのです。


今日の最終作業日には、一般から応募した村民の方や今帰仁村青年団の方など約10名が加わり、今帰仁グスクを学ぶ会のメンバーと共に作業をおこないました。

今泊公民館でおこなわれた完成式には、与那嶺村長をはじめ新城教育長、今泊区長も参加され、ご挨拶をいただきました。

チニブ完成2、フクギの苗を参加者が移植
一般参加者の方がフクギの苗を植えています。



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フクギ並木の景観がきれいになりました。




今泊集落の白浜(しるばま)と呼ばれる美しい海岸
海岸に出ると美しい海が広がります。白浜(しるばま)と呼ばれる海岸です。


深い渓谷をひかえる志慶真城郭を見下ろしたところ。

「沖縄にしかない本物の沖縄を訪ねる旅」バスツアーが毎日運行しています。『沖縄にしかないもの、沖縄らしいもの』に、観光地化していない今帰仁村(なきじんそん)で出会う旅です。

ツアーバスは那覇を出発、まず古宇利島へ。古宇利島は古くから沖縄版アダムとイブ伝説で知られ、珍しいジュゴンが棲む島でもあります。ゆっくり70分(平日90分)滞在します。

古宇利島の後、土日祝日は闘牛場で闘牛体験。牛の大きさと迫力にびっくり。60分。(平日は今帰仁酒造で泡盛の醸造を見学。30分)

今帰仁城跡のおひざ元である今泊集落は、今では映画のロケ地として何度も映画に登場。沖縄県内でもめずらしい格子状集落です。道が格子状に区画されていて計画的にムラ作りがおこなわれています。17世紀はじめまでは、今帰仁グスク直下にあり城下町として今帰仁グスクを支えてきました。散策をご案内するのは、「今帰仁グスクを学ぶ会」のガイドで地元出身の上間さんです。30分。

今泊の散策後は、2000年に世界遺産登録された今帰仁城跡へ。ここでも、上間さんの案内で見学します。琉球3大勢力のひとつ山北(さんほく)の中心だった今帰仁グスクは、北の都として栄えました。今では、御嶽(うたき)や拝所を参拝する人びとが絶えず、現代沖縄の人びとにとって精神的な都になっています。40分。

沖縄バスホームページ 詳細、ツアーのお申し込みは沖縄バスへ。画像クリックで沖縄バスホームページが開きます。


バスは9:30沖縄バス本社を出発。9:45那覇空港本ターミナル発。途中乗車は不可。
帰路は那覇空港LCCターミナル17:30着。那覇空港本ターミナル17:45着。沖縄バス本社18:00着。途中下車は可能です。

バスの運行は8月31日まで毎日。申し込みがおひとり様の場合でも運行します。
今帰仁グスクから伊是名・伊平屋島を望む。クリックで拡大。
伊平屋・伊是名島を望む(画像をクリックすると拡大します)



よく晴れたので、今帰仁グスクから伊是名(いぜな)島と伊平屋(いへや)島がはるかに望めました。この二つの島々の住所は島尻(しまじり)郡。沖縄本島南部の行政区域なのです。

今帰仁グスクは沖縄本島北部にありますから、住所は国頭(くにがみ)郡。すぐ目の前にあるこれらの島々は島尻郡??

この不思議な現象を伊是名村役場のホームページでは以下のように説明しています。
「明治時代の廃藩置県で沖縄県になったとき、伊是名役所は那覇役所に併合されたため、その後の郡編成で島尻郡に編入されたからである。」伊是名島のごあんない【島の魅力】より

もう少し歴史をさかのぼると、伊是名島は首里の王様尚円(しょうえん)の出身地。それで、首里王府が直轄した島なのです。そこから、南部行政の管轄すなわち島尻郡になったと言えます。

15世紀初め、尚円王の子孫たちが首里から今帰仁グスクへ派遣され、今帰仁グスクを治めたことはよく知られています(監守制度)。監守一族は日々、祖先尚円王の出身地である伊是名島をながめていたわけです。

伊是名島へは、今帰仁村内の運天港からフェリーが運航していますから、今帰仁とおなじみになった方は訪ねてみるとさらに沖縄ツウになることでしょう。


伊是名島の後に見える伊平屋島は、尚巴志(しょうはし)王の祖父の出身地とされています。尚巴志は第一尚氏、尚円は第二尚氏王統の始祖ですから、首里にとって重要な島々だったのです。


下の地図で伊平屋島の下の沖縄県の文字の部分が伊是名島

拝みをする人びとの姿を見かけたときは

そいつぎ
そいつぎ(城内下の御嶽)で拝む人たち



今帰仁グスクでは、拝みをする人びとが見られるようになりました。初夏の日差しは暑いですが、日曜日を選んで拝みに訪れるのです。

観光のお客様にとっては奇異に映る拝みの姿ですが、拝みの方にとってはグスク内の御嶽(うたき)で拝むことは、ごく普通のことなのです。彼らにとってグスクは聖地ですから、拝みが終わって帰るときに正門に向かって一礼する人たちもいます。

ガイドがお客様をご案内しているとき、拝みの人たちとかち合うことがあります。そんなときには、そっとその場を通り越して拝みの邪魔をしないようにします。お客様が拝みの姿に遭遇したときは、グスクが聖地であることを実感できるよい機会でもあります。

琉球を創った神々や火の神(かまどの神)などに対する信仰は、琉球の時代から現代沖縄に至るまで受け継がれています。これは、日本本土では見られない特徴です。

秋になると、門中(沖縄語でむんちゅう:男系親族の集まり)による今帰仁上り(なきじんぬぶい)という伝統行事が始まります。名前が示すとおり、今帰仁グスクを中心として、聖地巡礼をおこなう行事です。
大きな門中は100名を超えるところもあり、観光バスをチャーターして今帰仁グスクを訪れます。

聖地、聖域でのルールは、拝みの邪魔をしないことです。話しかけたり声高に話しながら通り過ぎてはいけません。

与論島が見えた一日

そいつぎの御嶽から東シナ海をみる
そいつぎの御嶽(うたき)から東シナ海を見たところ


今帰仁グスクの御内原(うーちばる)から、与論頭がしばらくぶりで見えました。こんなに近い島ですから、今帰仁グスクと関わりがありそうです。

調べてみると、15世紀初め、当時今帰仁グスクの城主だった山北王怕尼芝(はにし)の二男(王舅:おーしゃん)が、与論島に渡り世の主となり、与論グスクを築いた、という伝承があります。

その後、山北王は中山(尚氏、首里城)に滅ぼされるので、与論島も首里の管轄化に入ったと思われます。伝承によると、尚真王の次男尚朝栄が、世の主として与論島へ渡りグスクを築きました。

ということは、与論島のルーツは山北(今帰仁グスク)そして首里(琉球)にあると言えるかもしれません。


実際に、与論島の人々は以下のように、いくつかの系統に分かれているようです。

・三山の時代以前から島にいた人々(アマンチュ系)   
・北山の時代に島にやってきた一族(北山系)   
・三山統一後、首里王府から派遣された一族(中山系)   
・1611年以降、薩摩役人などの系統(薩摩系)   
・その他


これらの系統をみると、与論島は、やはり山北(今帰仁グスク)そして首里(琉球)に大きく関わっていると思えてきます。




(残念ながら、与論島はコンパクトカメラでは写りません。)
志慶真川(しげまがわ)を見下ろすながめ、城壁の内側は志慶真城郭写真左側が志慶真川の谷


梅雨明けした今帰仁グスクは、夏の太陽が照るものの、涼しい風も吹いています。グスクの東側を流れる志慶真川(しげまがわ)から、梅雨時の水が流れて水音が大きく聞こえます。

志慶真川の谷はおよそ30度の急勾配で、今帰仁グスクの天然の堀の役目をはたしています。

志慶真川はグスクの飲料水を供給しました。さらに下流域では水田も作られたので、主食に米を食べていたと考えられます。グスク内の炉跡から炭化米が発掘されています。

今帰仁グスクから出土した13世紀の製作とされる「グスク土器」は、農耕社会が安定してきた時期を示している製品とされています。

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